我が思うが儘に
遮るもののない視界の中。漆黒に塗られた空を見上げて、新一は息を吐いた。
空にあるのは"めったにない"という意味を持つブルームーン。
ぼんやりと光る月の青白さはどこか静謐で、やっぱり大人しく家に戻って静かに見上げていればよかったと少し後悔する。
いや、今からでも遅くない。
「…帰ろ」
少しの逡巡の後に寄りかかった壁から背を浮かせれば、それを見計らったかのように、闇色の空を裂いて白いカイトが向かってくるのが見えた。
「嫌がらせか…?」
相手が聞いていたらこっそり涙を流しそうなことを真顔で呟いて、新一は汚れた服の後ろを少しはたく。ただその白が降り立つのを待つのは癪で、半分は諦めながらもまた月に視線を移す。
「今晩は、名探偵。招待状は無事届いたようですね」
「………気色悪い」
優雅な所作で屋上に降り立った怪盗に、新一は開口一番そう言った。
「失礼な方ですね。こんなにも貴方に礼を尽くそうとしているのに」
「オメーのは『慇懃無礼』って言うんだ。なんか用か?」
相手の言葉を言下にすっぱりと切り捨てて、新一はそっけなく問う。
情緒もなにもない相手にキッドは苦笑したが、逆光のせいで新一にはその表情が読めなかった。
「今夜は格別に月がキレイだろ?」
「…それだけで人を呼びつけたと」
「まるで祝福するみたいだと思わない?」
気の知れた友人に語りかけるように、キッドは笑った。それを気配で察した新一は無表情のまま月にまた目を向ける。
日の光のように目を差すわけではなかったが、その光はやはり静かで、新一は感嘆するように目を細めた。
「大体3年に2度程度の周期でしか見れないもんな。実は狙ったんだろ?」
今宵怪盗の懐に収められたのは"ロイヤルブルームーン"の名を持つ、珍しいくらい大きなペンダントヘッド。特にメインのブルーのシラー現象を起こした月長石を指せば『まあね』と軽く返事が返った。
「相変わらず夢も可愛げもないね」
「夢なんてものを語る相手は選ぶさ」
「あらら。俺はうってつけじゃない?」
「ウルサイ犯罪者」
「職業差別反対」
「そう言わず喜べ。"差別"じゃなくて"特別"だ。それと、犯罪を職業にするな」
「…"特別"?」
「そ。"特別"」
「そりゃあ光栄。でもどうして?」
「夢見るリアリストに語る夢なんて、持ち合わせがないんだよ」
「真実しか見えないロマンチストだから?」
キッドが訊けば、新一は小さく笑った。
「で、なにが"特別"?」
「"特別"な、敵だろ?」
「…敵、ねぇ…」
面白く無さそうにキッドは繰り返す。
その様子に気付かずに新一はまた壁に背を委ねて、月から視線を離さない。
「帰りたい?」
「家にな」
即座に相手の揶揄の意味に気付いて返すと、笑われた。
「生憎月に知り合いはいねーよ」
「そりゃよかった」
「なにが」
「月の晩に連れ帰られたらさすがに悲しいですから」
「言ってろ」
戯言にいちいち付き合ってられないとばかりに新一が突き放すと、キッドは本日の獲物を新一に放って寄越した。
「返しておいてもらえるか?」
「またか」
呆れたような新一の口調にキッドは苦笑を返す。
「"ブルームーン"ね…」
宝石より空にあるそれの方が断然キレイだと新一が思うのは、宝石に興味がないからか。新一は何気なくそれを月に翳してみたが、印象は変わらなかった。
「神秘的な色に魅せられるんだろうな、昔から」
「ころころ形を変える移り気な浮気者でも?」
「だから綺麗で、我儘なお姫様なんだろ」
「まるで貴方のような?」
揶揄するような軽い言葉の割に、まるで甘い睦言を囁くような声。
そのアンバランスさに眉を寄せて新一はキッドを睨んだ。
「どこが俺みたいなんだかさっぱり分かんねーよ」
「そのままだって」
「随分節穴な目だな」
「これでも視力には自信ありますよ?審美眼の方もね」
「そーかよ。勝手に自惚れてろ」
「でも能力って認めて欲しいものだろ」
「認める奴は認めるし、認めねー奴はどうしたって認めねーよ」
「名探偵は後者ってこと?」
嘲うように問われ、分かりきった挑発ながらに頭にきた。
「わぁるかったなぁ。狭量なヤツで」
「誰もそこまで言ってないって」
嘲いをただの笑いに変えて、キッドは楽しげにその場で腰を折った。
「 It's a show time. 」
ここに居るたった1人の観客のために、呟く。
「さて名探偵。今宵、この魔法使いめが貴方の望みをひとつだけ叶えましょう」
「どっからそういう話になるんだ」
「願いを叶えれば、月には帰らないでしょう?」
子供っぽくて滑稽な駄々っ子のようだ。
「帰りたくなったら帰る」
意地悪く笑った新一に、キッドは大袈裟に残念がって見せた。
「我儘ですね」
「生憎大人しく足止めされる気はないな」
「それでこそ我が愛しの名探偵」
浮ついた言葉に新一は眉を寄せるが、そんなことお構いなしにキッドは「お望みは?」と訊ねる。
「そーだな…」
どうせのってやらねば帰らせないのだから同じだろうと思いつつ、視線を泳がせれば今宵の戯言の始まりがそこにあった。
「じゃあ月が欲しい」
「なるほど。帰り故郷を奪ってしまえば帰れませんね」
「物騒なこと言うな」
「あの月ではお気に召さない?なら今夜の月に肖って。」
仰ぎ見た月を遮って白い手が閃く。まるで月からもぎ取るような仕種の後になにもない空中からその手が取り出してみせたのは、紫色の薔薇。
「これも"ブルームーン"」
「青い薔薇は"不可能"の代名詞だったな」
「そう。それと"知性"、とかね。名探偵にぴったり」
きちんと刺抜きされたそれを差し出され、とりあえず新一は受け取った。受け取らなくても気付けばコチラの手中に納まっていたりするから、無駄な抵抗は省きたい。
「青とは言いがたいですが…滅多に無いくらいなら、ね」
「そうだな」
薄紅がかかった紫の花弁に苦笑して新一は頷く。
「お気に召しましたか?」
「それはいいから。用も済んだしとっとと帰れ」
「ま、長く居ても身体に障るし。今日は諦めるか」
「お前…これ以上なんかしたいのかよ」
「出来れば一晩中傍にいたいけど。ベッドの中だとなお良し」
「寝言は寝て言え」
「是非とも共に夜を明かしたときにでも聞いてください。では」
風を読んで翼を広げた怪盗を黙って見送ってしまってからはたと気付いて、新一は溜息をついた。
「なに犯罪者見送ってんだ俺…」
手に残った"青い月"をポケットに仕舞いこんで、もう片方の"青い月"は手すりから事も無げに投げ捨てる。
このビルの下は叢になっているから、それは人目に触れず程なく朽ちるだろう。
「こんな簡単なことで願いを叶えたなんて言える訳ねーだろ、ばーろ」
かぐや姫より我儘な名探偵は、笑って呟いて踵を返した。
想像すると探偵さんの方が怪盗より気障です…。