どろぼうとけいさつの延長
 音も立てずに室内に入り込んだ気配に、哀は眉を顰めて手を止めた。

「今晩は」

 すまし顔で腰を折って見せた白い紳士に一瞥をくれると、哀は息を吐いて冷めたカップに手を伸ばした。
 表面でいくら紳士面をしようと、その正体はただの紙一重馬鹿だと理解している哀は、抗議するだけ無駄だという事を知っている。
「今日は何の用?」
 前置きもなしに話を促す哀に、アルカイックスマイルに近い表情でシルクハットの端を摘んだ怪盗紳士は、それをくるりと手の中で遊ばせたかと思うと一瞬にしてその白い衣装を換装してみせた。
 途端、前面に出てくる明るい表情に哀は対照的に苦い表情を浮かべた。
「聞いてよ哀ちゃん」
「聞いてるわ」
「今日の現場に新一が来ててさ」
 隣人の動向は知っていたので、ある程度予測はしていた。しかしその予測が当たったところで嬉しくもなんともない。
「おかげで中森警部が張り切ってくれて逃げづらいのなんのって」
「そ。良かったわね」
 そこは良くないところ、と快斗の訂正が入るが、話の最後が『めでたしめでたし』で終わる事を知っているのだから中途で省いて感想を言っても哀に支障はない。

「ま、新一以外に俺を捕まえられるわけがないけど」

 当然とでも言うように笑う相手に、それは当然だろうと思いつつ哀は溜息を吐く。
 今宵、警察無線を盗聴していた男は俄然やる気の中森警部も目じゃないくらいに意欲的だった。
 怪盗1人捕まえられない警察に同情する気はないが、こんな男の色恋事情で簡単に振り回される彼らが多少哀れではある。
「それで勝敗は?」
「石の確認は出来たけど、相変わらず手加減なしの新一相手じゃ分が悪い」
 結果負けてはいないのだが、いつものようにスマートに計画を遂行出来なかったという点ではキッドにとっての勝利とは言えず。
「どうにか掠め取った石を月に翳してすぐに新一に返却しただけだからなぁ」
 やれやれと残念そうに息を吐くも、その表情は悔しげでありながらどこか面白がっているようで。
「…楽しそうね」
 コーヒーを啜りながら呟くと、にこり、というよりはにやり、の音で笑った快斗は簡単に頷いた。
「新一には迷惑な話だろうけど」
「どうかしら」
 ふ、と笑った哀の言葉に快斗が首を傾げる。
「案外彼も楽しんでるんじゃないかしら。あなたはいい餌だもの」
「餌って…もうちょっと言い方あるんじゃないかなぁ…」
「貴方の暗号も駆け引きも、彼にとっては甘いお菓子みたいな物でしょう」
 謎解きという知的で高級な嗜好品。舞台も大掛かりなキッドのショーは子供が遊園地のアトラクションにわくわくするような、そんな気分を新一に与えているに違いない。
「良かったじゃない。需要と供給が成り立っていて」
「ビジネスよりもっと甘いものを期待したいんだけど…」
「貴方と今の彼じゃあ、小学生の追いかけっこと同レベルの楽しみ方ね」
 "どろぼう"と"けいさつ"の鬼ごっこ。限られた空間決められたルールに従い追いかけ捕まえ逃がしてまた追う。
「全力疾走しているうちに、恋に摩り替わってるといいわね」
「『吊橋理論』の追いかけっこ版?」
 胸の鼓動の履き違えなんて、と快斗は苦笑する。
「工藤君意外と単純だから、勝負が白熱したらない事もないと思うけど?」
「そう?他ならぬ哀ちゃんの言葉だし、信じる価値はあるかな」
 僅かな期待を寄せるように悪戯っぽい笑みを零して、快斗はふとドアの方に視線を移した。
「…帰ってきたみたいだな」
 一言呟いた言葉を察して哀が「さっさと出て行け」と視線で訴える。
「ありがと。じゃ、お邪魔しました」
 快斗は来た時とは違い律儀にドアから出て行く。
 そして彼は隣りの家に足を向けるのだろう事は目に見えている。
「次は工藤君かしらね…」
 また逃げられたと悔しそうに眉間に皺を寄せる表情が見えそうだ。

 追いかけ捕まえ逃がしてまた追う。

 楽しむのは結構だけれど、息抜きのように立ち寄るのも程々にして欲しいものだと僅かに苦笑の混じる呆れ顔で哀は隣宅の方へ目を向け、再度溜息を零した。
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哀ちゃんにとってはいい迷惑。


061203