ラプラスの悪魔
「アレン」
「はい」
「賭け、しよ?」
「なにでですか?」
 テーブルに突っ伏したままのラビの言葉に、本を読んでいたアレンは顔を上げずに訊ねた。
 その本はラビのものだろう、テーブルの隅に置いてあったのでアレンがラビに許可を求めて読み始めたものだった。『時間について』。安直で分かりやすくも深い題材だ。
 腕の中から顔だけを上げて、ラビは目の前のドアを見た。
「そのドア」
 示されて、アレンはドアを見た。何の変哲もない、自分の部屋と変わりないただの扉。廊下と部屋を繋ぐ唯一の切れ目。
「次に開けるのは誰か」
「?リナリーでしょう」
 微かに首を傾げて、半断定的な疑問系。
 少し前に思い出したように「美味しいクッキーがあるの。持ってくるね」と言ってこの部屋を出て行ったリナリーが問題なく件のクッキーを手にして戻ってくるならばそろそろだ。無意識にそう判断してアレンは至極当然のように彼女の名を挙げた。
 ラビが口の中で「立派な餌付けだよなぁ」と呟いたことを知らないアレンは、そうと知れない程度に機嫌良く、また本に視線を落とした。
「じゃあリナリーだったらアレンの勝ち。違ったら俺の勝ちってことで」
「それは偏りすぎですよ」
「でもアレンはリナリーだと思ったんしょ?」
 それがほぼ100%の確立で起こり得る事象ならばいいけれど、とアレンは苦笑した。まずそんなことあり得ない。あり得たら賭けが成り立たない。そう考えると不確定要素全てを内包するラビの選択の方が有利に思えるのは仕方がない。
「たとえば、リーバーさんが何かの資料を探しに来たり、コムイさんが何か問題を持ち込んだり」
「ユウが本取りに来たり」
「するんですか?」
「さぁ」
 たとえばの話、と言うラビにそれもそうかとは思いつつ、その気のない返事をどう解釈すべきか悩んだ。なぜか嫌な予感がする。結局は深く考えないことにしたが。
 緊急の呼び出しでもしかしたら一瞬後には自分が開けるかもしれない。ふとそう思い至ってラビを見る。
「ラビが自分で開けるとか言わないですよね?」
「言わないって」
 言葉にくぐもった笑い声が付属する。さすがに穿ち過ぎたかと反省してアレンは口を閉ざした。
「昔の頭いい人が言い出したんだけど、」
「はい?」
「悪魔の話」
 アクマ。一瞬どうしようもなく囚われた思考は、すぐに打ち消された。ラビが今話しているのは形而上の、つまり幻想の産物の方だろう。
「その悪魔は未来に起こる事が書かれた手帳を持ってるんだって」
「未来に起こること」
「そ。つまり学問的に結果は最初から決定されてるって理論を打ち立てたんさ」
 ラビの頭の中は時々図書館のようだ、とアレンは思う。羨ましいという次元はとうに越えているけれども、博識という点でとても感心する。
「徹底した決定論を悪魔にたとえた、ってことですか?」
「当たり」
 に、と笑ってラビは正解者に拍手。ぱちぱち、と口で言った。
「それでいくと、賭け事ってその悪魔から見たらすごく意味のないことですよね」
「賭ける奴が悪魔の手帳を覗けるならなー」
 それもそうだ。そう思ってからまた嫌な感触を覚える。
「つまり何が言いたいんですか?ラビは」
「さー…」
 ただの暇つぶしかもしんないし、と呟いた後にようやく身体を起こしてラビはアレンの読んでいる本を覗き込んだ。
「"たとえば"で仮定する未来のバリエーションの確率論」
「は?」
「"たとえば"あそこでああしていれば、って思うこともある」
「ありますね」
「でもその結果結局俺はここで突っ伏してアレンとクッキー待ってるかもしれない」
「……そうですね」
 後悔の話だったんだろうか。それとも懺悔。もしくは慰め?
「だから『あの時ああしていればなー』と思うのは無駄かもしれないからな?」
「そう、ですね」
 妙なダメ押しにアレンがぎこちなく頷くと、ラビは満足げに笑った。

 3度目の嫌な予感がした。

 それに気付く様子もなく、ラビは上体を反らせて伸び上がった。
「あのドアがいつまでも開かないといいのにな」
「どうしてですか?」
「どうしても」
 球を投げたら途中で曲がって返ってきたみたいな答えを残して、ラビはまたテーブルに突っ伏した。答える気がないのはよく分かる答えだった。
「アレンは開いて欲しい?」
 訊かれて、少し考える。
 なんというか、その訊き方はずるいんじゃないだろうかと思う。まるで答えを誘導するみたいな訊き方だ。
「ずっと、ずっと永遠に開かないのはちょっと困ります」
 この答えも少しだけ質問の軌道からずれているような気がしたが、思いを素直に答えるとラビは小さく相槌を打って静かになった。
 結局なんだったのかアレンは分からないままだ。
 そこでやっと、賭けの話の行方を見失ったことに気付く。
「ラビ、結局賭けはどうするんですか?」
「ん?じゃあキスひとつ」
「はい?」
「負けた方が、好きな子にキスひとつ」
 なんですかその子供の嫌がらせみたいな条件は、とアレンが抗議する前にドアが外側から開かれた。
 思わずドアを振り向くと、取っ手に手をかけたままアレンの勢いに驚いたようにこっちを見ているリナリー、と。

「本返せ」

 仏頂面に眉間の皺2割り増しの神田がいた。
「もしかして」
「その本。ユウの」
 そういうことはまず一番初めに許可する前に言うものだろう他人の物をさも自分の物のように貸さないで欲しい、というラビへの非難を飲み込んで、アレンは神田に読みかけの本を閉じて渡した。
「…ありがとうございました」
 一応言ってみるが、案の定応えは望めず更に顔を顰めた神田は無言で踵を返した。
「賭けはアレンの勝ち」
 つらつらと語られた言葉の意図がやっと分かってアレンはラビを恨めしげに見た。賭けの勝敗なんて差し引きにもならない。
「残念」
「ラビ…」
 全然残念そうじゃない、と思いながら話の見えないリナリーの前で蒸し返すのもまた面倒な話で。
「どうしたの?」
「なんでもありません…」
 疲れたようにリナリーに笑って、アレンはラビを責める機会を失った。過去を詰るより目の前のクッキーに癒されたい。
 しかしふと賭けの結果に付随する罰に気付いてラビを見やると、まるで見透かしたようにラビが笑う。

「後で」

 する、ということだろうか。そういえばラビの好きな人って誰だろう、と無邪気に考えながらアレンは差し出されたクッキーに手を伸ばした。
 負けたというのにまったく気にしていない風のラビに、もしかしたら彼はこの結果を記した手帳を既に読んでいたのだろうかと馬鹿なことを考えた。
 たとえば、いつもカードゲームで自分が悪魔の手帳を上書きしてしまえるように。
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イカサマってこと。変な話。(自分で言うな)
ラビは全部が計算ではなくしかし美味しい。