暦はすでに春を謳うが、夜闇は未だに寒々しい。
 そしてこの日は、昼からせっかく綻び始めた花が再び固い蕾に戻るのではと思う程に寒い日だった。

「なにもさ、こんな日じゃなくたっていいと思うんだよね」
「そうだな」
「百歩譲って、」
 遠くに小さな篝火を見つけて昌浩は口を閉ざした。
 どこかの貴族のものだろう、ゆったりとそれは昌浩の向かう方向とは別の方へ遠ざかっていく。
 それを確かめて昌浩はまた口を開いた。
「じいちゃんが俺の修行のためにこういうこと言いつけるんだとしてもさ」
 なんだ分かっているのか。
 昌浩の言葉に無責任に感心しながら、ここで余計な言葉を挟まない方がいいと思ってその言葉は口の中で消える。
「こんな薄ら寒い日に、幽霊退治に行かせるってどうなの」
「なんだ昌浩。怖いのか?」
 さっきの慎重な考えはどこに行ったのか、軽々しくそう尋ねた紅蓮を昌浩は即座に睨んだ。
「ち・が・う!!」
「知らなかったな。お前が幽霊怖がるなんて」
「だから違ぁうっ」
 草木も眠る丑三つ時。
 腐っても安倍の末息子、頭に血が上っても絶叫することはなく、あくまで小声での反発である。
「雰囲気のこといってるんじゃなくて、寒さのこと言ってんの」
 実際怖がることも臆することもなく、幽霊退治は恙無く済んだ後である。
 じいちゃんの頼む仕事にしては簡単だったなぁ、と思いつつしっかり文句をいうところが残されているあたりさすがはじいちゃんだなぁ、とも思っていた昌浩である。感心の方向が間違っているが。
「そうだな…少し寒いか」
「そうだよ。今日は夜警止めにして部屋で寝ようかな、とか思ってたのに」
 珍しくそう考えていたのは、紅蓮も知っている。
 だが考えた後で、都を騒がす幽霊騒ぎに気付いて夜警中止をまた止めようかな、と考えていたのも知っている。
 そして放っておいても昌浩は夜警に出ようという結論をだしただろうし、それを清明は利用しただけで。

 要は昌浩の八つ当たりである。

 思いのほか寒かったんだな、と思いながら紅蓮はいつもより少し早足の少年の頭をぽんぽんと叩いた。
 いつもなら「子ども扱いするな」と跳ね除けられるところだが、今日の昌浩は違った。ただ自分の頭を叩いている手を辿って紅蓮を見上げている。
「どうした、清明の孫」
「孫言うなっ…この、」
 条件反射でそう返した後に、昌浩は不自然に言葉を飲み込んだ。
 大方『物の怪のもっくん』と続けそうになって相手が紅蓮だということに気付いたのだろう。
「…紅蓮」
「なんだ?」
「ぐれーん」
「だから、」
「ぐれんぐれんぐれんぐ、れんぐれんぐれ、ん」
「妙なところで切るな」
 思わず手の下にあった小さな頭を力強く掴んでしまう。
 とその手を外そうと昌浩の手が伸びて、腕に触れた。
 その腕が思った以上に冷たくなっていて、紅蓮はぎょっとする。
 だがそれに気付かず、昌浩は足を止めた紅蓮を見上げて少し首を傾げた。

 そして。

「寒いなぁ…あ、紅蓮。火、熾せるよね?」
 少し期待のこもった目で見上げてくる少年に、今度こそ紅蓮は絶句した。

 凶将であり火将騰蛇。性状は「驚恐」。身に纏うは地獄の業火。
 恐いもの知らずというわけではないが、この少年が他の人間からすると少々ずれた感覚を持ち合わせているのは知っている。いるのだが。


 この少年は地獄の業火で暖を取ろうというのか?


 紅蓮の呆れを非難と取ったのか、昌浩はばつの悪い顔で溜息をついた。
「ダメかな、やっぱ」
「ダメというか…」
 普通やらんだろう。
 紅蓮の心の内を理解しないまま、昌浩は再び溜息をつく。
 その息は闇に紛れてなお白い。
「じゃあせめて紅蓮、もっくんに戻ってよ」
「なんで」
「首に巻くから」
「オイ」
「もっくん、本当にあったかいんだよね。あの毛皮が」
 ふわふわで、触り心地よくてさ。
 そんなことを言いながらまだ頭に乗せられたままの手を退けようと取る。
「あれ?」
「?」
「紅蓮って意外と体温高い?」
「今のお前が冷たいんだ」
「そっかー」
 頷きながら昌浩はもう片方の手も添えて紅蓮の手をぎゅっと握る。
「なんか紅蓮って体温低いイメージあったんだけど、意外だなぁ」
「いや、だから」
「ぬくーい」
 感心したままの昌浩をそのまま引っ張って帰ろうとすると、昌浩はそれを許さずに紅蓮の手を持ったままその場に留まる。
「…なんなんだ?」
「いや、えーと」

 このまま歩き出すと手繋ぎしてる子供みたいで嫌。

 とは言い出せずに、昌浩は紅蓮から目を逸らす。
 とりあえずそこから動かない昌浩を、紅蓮は溜息をひとつ吐いて抱き上げ、近くの屋根に向かって跳ぶ。
 そして昌浩を抱きこんだまま屋根の上に座った。
「…前もおんなじことしたよね」
「お前が寒がるくせに帰らないからだろう」
「その時は帰りたがらなかったの紅蓮だけどね」
 あの時はやむを得ない状況だったが、今回はなんとも和やかなものだ。
「紅蓮」
「なんだ?」
「ぐれん」
「だからさっきからなんだ?」
「名前ってさ、一番短い呪なんだよね」
「あぁ」

 呪―――で、それは形を指し示すもの。

「『紅蓮』かぁ…キレイな名前だよね」
「…ああ」
 同意すると、ふ、と小さく息を吐いたのが分かった。
「『清明の孫』ってさ、なんか『清明』が強調されてない?」
「まぁ、安部清明って名が有名だからな」
「それがヤなんだよ」
「知ってる」
「知ってても」
 なにか、八つ当たりしたい気分なのだろうか。いつもよりねちねちと突っかかってくる言葉に紅蓮は眉を寄せる。
「名前以上に自分を示す言葉があるんだよ?ヤじゃない?」
「そうか?」
「そうだよ。『紅蓮』、って名前があるのに『清明の式神』って呼ばれるみたいなもんだろ」
 それはそれで別に不快ではない。
 そう思っている紅蓮の心の声を、今度は昌浩も察した。
「そーだよなー…紅蓮はじいちゃんの式神でいいんだよねー…」
「何が言いたいんだ?」
「俺の名前は俺の何を示してるのかなーって思って」
 むー、と唸って昌浩は黙った。
 表情の見えない頭をまた悪癖のようにぽんぽんと叩きながら、紅蓮はどうしたものかと空を仰いだ。
 結論を出すか、本格的に寒くなってくるか、もしくは下手すると朝までここでこうしていられたら、たまったものじゃない。風邪をひかれて清明に睨まれるのは紅蓮なのだ。
 本当にもしひいたとしたら、昌浩本人をからかって遊ぶのをもちろん忘れはしないだろうが。
 叩いていた頭をぐしゃぐしゃと混ぜて、紅蓮はもうひとつ息を吐く。

「人間は、『強い』とか『弱い』とか、示す言葉がたくさんあるだろ」
「うん」
「だからそいつの名前を呼ぶ時に、そういうのをひっくるめて混ぜ合わせて」

 それこそ『敵意』も『嫌悪』も。『好意』や『愛情』も。

「相手に『まじなう』んだろ」


 そうして降ってきた言葉を、昌浩は咀嚼して呑み込んだ。
「あぁ、そっか」
「納得したか?」
「うん。ちょっとは」
 ずっと握っていたおかげで昌浩の手は温まっている。

「ありがと、紅蓮」

 立ち上がろうとした昌浩の身体を支えて地面に下ろすと、紅蓮は物の怪の姿に変化した。
「帰るか、昌浩」
 重さを無視した動きで肩に乗ると、昌浩はにっこりと笑って頷いた。
「やっぱもっくんの方が気持ちいいなぁ」
 くるっと首の周りに白い身体を巻きつけて、しみじみと昌浩は呟く。
「名前は大切なんだろ?もっくんはやめろよ」
「えー。なんで?もっくんはもっくんでしょ」
「もっくんゆーな」
「俺の愛のこもった名前がどうして嫌かな」
「どうせその場の勢いで適当につけたんだろ!」
「あははー。ばれた?さすがはもっくん」

 そう言って、昌浩は気持ちよさそうに白い毛皮に頬を寄せて、笑った。



 互いの名前を口にするときに込める気持ちはとてもひとつの言葉では表せないけれど、いつも笑ってくれるようにと。

 それが清明から教わった短い呪。

 一番短い『おまじない』。
back

すいさんへ。


060523