the Melting Point
部屋の中が、だんだんとオレンジ色を含み始める。
黄昏とも呼ばれる時間がじわりじわりと近づいていた。
「鋼の」
短い呼びかけは、まずこの一回では気づかないだろうという諦めを含んでいたが答えがなくともとりあえず呼び始めることはしなければならない。あと数回その名を呼ばなければいけないのは現時点で確定だとしても、まず呼び始めなければ彼の注意をこちらに向けることができないのだから。
初めから怒鳴ってしまえばすぐに気づくのかもしれないが、できるだけ声を張り上げる前に気づいてもらいたい。
それは横着というよりは、この部屋にはないけれどどこにあるとも知れない他者からのいらぬ注視を避けるためにそう考えて、ロイは再び口を開いた。
「鋼の」
「………」
「鋼の」
「………」
「……はがねの」
「………」
「は、が、ね、の」
「……え?」
やっと小さく声を出したものの、ずっと黙っていたせいか彼のそれは掠れていて、返事というよりは溜息のようだった。
無意識なのだろうが、けほ、と小さく咳をしてエドは喉を整える。
なぜそれが無意識なのかと言えば、喉を整えたにもかかわらず一向に喋り出す気配がないからだ。
「鋼の」
再三再四の呼びかけに、エドはひらひらと白い手袋をつけた右手を振ってみせる。彼の場合、確実にそれは配慮ではなく横着である。
「……それが一応曲がりなりにも上官への態度かい?」
「一応曲りなりにしか上官でないあんたには十分だろ」
「それは、君の今横たわっているソファは私の部屋の物で、読んでいる本はこの書架の物で、その紅茶が私の振る舞いでもかな?」
「今俺がいるソファは軍の支給品で、読んでいる本はこの司令部所蔵の資料冊子で、この紅茶はホークアイ中尉が入れてくれたものだけど、何?」
「……口が減らないね」
「大盤振舞して損がないのはこれくらいだからな」
いつもより静かで険のある口調は暗に『邪魔すんな』と言っていた。実際いつものロイならば、真剣に集中している時のエドの邪魔はしない。
だが今このときは例外だった。
「今から会議があってだね」
「………」
「私は席を外す」
「………ふーん」
ロイの言いたいことが分かったのか、エドはしぶしぶ本から顔を上げた。
「もう日も暮れる。そろそろ宿に戻りたまえ」
「……もうちょっとなんだよ」
口をへの字に曲げてそう呟く。エドのその悪態をロイは予想していた。そしてそのあとの言葉のほとんども。
「また明日来ることもできるだろう?」
「えー…面倒臭い」
関係者が無人のこの部屋に一応は軍属とはいえ部外者のエドが留まるのが問題だというのは分かっているからあまり強くごねるつもりはないのだが、まだ読み残しのある本を置いて帰るのは嫌で、あと少しここにいたいというのも本音で。相手が気の知れた仲だからこそ、非を認めながらつい強請ってしまう。
だがロイが懸念しているのはそこではなかった。
「今日の会議は長引きそうなんだ」
「?……別に大佐が遅くなっても俺には関係ないだろ?」
「君がいなくなったら無人のこの部屋に誰が鍵をかけるんだ?」
「あー…錬成して扉閉めてくからさぁ…」
「君がその両手のみで大雑把に作ったそれを開けるために、会議で疲れて帰ってきた私はわざわざドアに練成陣を書いて分解し、さらに再構築し直さなければいけなくなるわけだ」
「………無能」
「それは個人の適性の差だよ」
誰もに君のその両手と同じ業を求めていたらきりがない。
いちいちが正論であるロイに、さすがにエドは悪態をついて逃れようとするのを諦め、止めた。
「じゃあ待ってるからさっさと終わらせてきてよ」
こともなげにそう言ったエドに、ロイは溜息を吐いた。
「なら、君ごと重要書類扱いだな」
「は?」
「部屋の扉に鍵はかけていくが、不審者でも出たら自分で撃退したまえ」
「……書類は自己防衛なんてしないぞ」
せめてもの反発にそう呟くが、ロイはそれを気に留めずに部屋を出て行く。
鍵をかける音が外側から響いて、部屋は数分前の静けさを取り戻した。
『長引く』とは言ったものの、ロイ自身が予想したよりも長く会議はずるずると続き、やっと終わったと息を吐いてふと見た窓の外はとっぷりと暮れてしまっていた。
疲れとはまた別の溜息がロイから漏れる。
ここまで待たせてしまったのでは、きっと激怒しているだろう。
この状況になったのは自分のせいではないというのに、そうなるだろう近い未来が予測できてしまうのはロイにとってはとても理不尽な気がした。しかしなんと言おうと部屋で待つ少年の反応は『悪しきは大佐』と決め付けてかかってくると予想できる。いやそうに違いない。
「あぁ…もしくはドアを壊しているのかな…予告通りに」
それはそれで悪い未来であることに変わりはないと思いつつ、身体的にも精神的にも疲弊したロイは執務室への廊下をややゆっくりとした足取りで歩いていた。それはせめてその未来があまり早く来ないようにという悪足掻きにしか過ぎないが。
そこまで嫌がりながら、そうされても彼を嫌えないどころかいっそ愛おしさすら感じる自分はどこで道を間違えたのだろう。
矛盾した考えを大人しく飲み下してロイがたどり着いたドアは、だが何の変哲もなくそこにあった。
そしてドアノブを回すと、それは回りきる前に手に抵抗を伝える。
つまり鍵もかかっている。
ということはやはり激怒した彼に怒鳴られるかねちねちと嫌味を言われるか、と取り出した鍵を鍵穴に差し込んで回す。
ドアノブを捻って中に一歩踏み入れたロイは、その部屋の薄暗さに目を見開いた。
「………鋼の?」
月明かりだけが、仄白く暗い室内を照らしていた。
* * *
ぎょっとして目を開けて上体を跳ね起こしたエドは、途端に耳に届いた様々な音に顔を顰めた。
空洞を風が通るような音で喉が鳴る音。
落ち着かない鼓動と呼吸の音。
乾いた布音は、かけていた上着が床に落ちた音だった。
―――上着?
自分ではかけた覚えのないもの、というより、エドは自分が眠りについた記憶もなかった。
ついた手は、硬い革張りの感触とその下に仕掛けられたスプリングの圧力を感じている。それは紛れもなく覚えのある、何度か座りそして何度か横たわったことのあるソファ。
導かれた現実を確認して、皮肉げにエドの口元が歪んだ。
起きた後に苦い思いを噛み締めるのは初めてではないのに、そこに、その気配がひとつあるだけで嘲りは泣き笑いになりそうだった。
ああでも悲鳴を上げなかっただけマシ?
「俺、何時間寝てた?」
「さぁ…どのくらいだろうね」
返された言葉に唇を噛む。
よりにもよってこの男の傍で、こんな醜態晒すなんて。
電灯の点いていない室内の唯一の光源は空の月ひとつ。
静かな空間はいつもより余計に微かな音さえ目立たせている。
エドが落とした上着を拾って、その肩に掛けるでもなく置く。そしてロイ自身はエドのいるソファの中ほどに腰を下ろした。元々広いソファはエドの身体を納めてまだ余りある。
ちょうど上体を起こしたエドの頬に手を伸ばせば届くくらいの距離。
だがその手を伸ばすことはせずに、ロイはエドに背を向けるように座ったままただ黙って暗い部屋を見ているだけだった。
お互いを空気のようにしか感じない時の沈黙と、今のこれとはまったく違う。重苦しい気分に誘われる舌打ちを噛み殺して、エドはこの静寂を払拭するなにかを探した。
だがその焦りは自分の鼓動の音を余計に自覚させ、静寂にその音が響いているような錯覚はさらにエドを焦らせた。
それにまるで気付かぬ様子で、ロイは特別な変化もなく口を開いた。
「ほんの数十秒だ」
「………ぁ?」
「君が眠っているのを、私が見たのは」
「数十、秒?」
「今しがた戻ってきたばかりということだ。随分待たせただろう…」
混乱した頭がロイの言葉を理解するのはいつもより少し時間を要した。
それがさっきの質問に対する答えだと認識してエドが顔を上げると、正面にあるロイの横顔が見えた。
「…すまなかったね」
そう言った、ロイの顔からはなにも読み取れなかった。
「謝る時はもう少し済まなそうにしろよ」
顔を顰めたエドの言葉に、ロイは悪びれもせずに僅かに肩を竦めた。
「眠りこけてしまうほどに待たせたのかと反省して、風邪を引かぬよう脱ぎ捨ててあった君の上着を掛けるという心温まる行為に出た途端にそれを落とされてしまったのだが」
「それは反省しての行為じゃなくて人として当然の行為じゃないのか」
「ならば君はここに私が横たわっていたら上着を掛けてくれるかい?」
「時と場合による」
「君の場合、気分と人によるだろう」
「あー…はいはい。アリガトウゴザイマシタ」
なぜこれだけ待たされてコチラが謝意を示さなければいけないのかと思うと釈然としないが、そうでもしないと目の前の男の口を塞げない。
だが、いざ黙らせてしまえば部屋に落ちるのはやはり奇妙な沈黙だった。
少し前屈みになって口元で手を組んでいるロイの視線は床に向いている。
なのにじっと見つめられているような、錯覚。
「ばっからし」
ロイには聞き取れないくらいの不明瞭な呟きを漏らしてもう一度上体を倒せば、窓に仕切られた窓が見えた。
闇色の空に点々と見える星明りと、月がひとつ。
なんとはなしにそれを見上げていると、足元が微かに揺れた。
「……なに?」
「いや…なんでもないよ」
なんでもない、と言いつつロイの手は機械鎧の足を軽く叩いていた。
まるで愚図る子供をあやすように、優しく。
認識することは出来ても肌と同じような感触と呼べるものはないはずなのに、なぜかそこがむず痒い気がする。
微妙に表情を歪めたエドに気付いたのか、ロイは叩くのを止めた。それでもその手は左足の上にある。
「……ふむ」
「なんなんだよ」
困惑の混じった呆れ声で訊くと、ロイはやはり表情を変えないで足の上に置いていた手を、エドの右手へ伸ばした。
それをただぼんやりと見ていると、その手はさっとエドの右腕を取って、もう片方の手で手袋が抜き取られた。
「触っていることは分かるのか?」
「あ…うん」
「感触ではなく?」
「ちょっと違う」
あまりの早業に口を挟めなかったエドにそう訊ね、握手をするように鋼の手を取る。一回り大きな手が手の甲を上にその手を持ち上げ、まじまじと見ているのをエドはなんとなく咎めることも出来ずに見ていた。
布越しに触れられたことはあった。
だが直接、肌ではない鋼の手に、確かめるように触れられたことは幼馴染の整備士を除いてなかったからか、居心地が悪い。
「案外、冷たいね」
「そりゃ、金属だからな」
「熱伝導は?」
「動かすたびに熱持ってたらすぐイカレちまうだろ。ちゃんと計算してある」
「なるほど」
ロイの茶化してるのかと邪推したくなる頷きに眉根を寄せ、エドは目の前にある顔を睨みつけた。だがそれは本当に邪推だったらしい。ロイの顔に浮かんでいるのは微かな感嘆だった。
玩具を弄くり回すように仔細を見ていたロイは、それをやめると再度包み込むように片手でエドの手を握った。
「………なに」
「こうしていると」
「…………なに」
思わず先を聞きたくないと思ってしまうくらいに嫌な予感がしたが、それでもエドは何かに突き動かされるように頑張って先を促した。
「熱放散が成されずに保温される一方かな?」
「くだらん真似すんな!」
握っている手を振り払おうと腕を振るが、その手はなかなか外れてはくれない。腐っても軍人、鍛えているとはいえまだまだ発育途中の子供の腕力ではそう簡単に振りほどけやしない。
「知っているかい?」
「何を!?」
未だに悪戯に手を振り回すことを止めないエドに、笑いを堪えるために口元に空いている片手を持っていく。
そんな態度に余裕を見て、エドは余計むきになって腕を振り回すことになるわけだが。
「温度の高いものは心に安心感を与えるそうだよ」
「……温めてくれるって?」
は。と鼻で笑ったエドに、ロイはくすりと笑いを漏らす。
少し意地悪く。
「君が望むなら、いくらでも、融けるほどの熱を」
囁かれた言葉の意味を理解して真っ赤になったまま固まったエドが何かを叫び出す前に、ロイはその小柄な身体を抱き寄せた。
「大、佐!」
「待たせてしまったお詫びに、望みどおりの温度をあげようか」
肩に顔を埋めて、声を頭上から降らせて、背に暖かな手を回す。
不意打ちに近いその行動に、エドは防御も何も出来なかった。
優しい、優しい、その温度が、体中を支えている。
その肩越しに窓の外が見えた。
安心感?
この目頭が痛くなるような熱が?
忌々しいくらいに雲のないキレイな空。
これなら今夜は絶対に雨は降らない。
ましてやここは室内だから、雨なんて関係ない。
だから、この頬にも、シズクなんて落ちてやこないんだ。
「鋼を融かすには、1500℃以上の熱が必要だぜ?」
「あぁ」
「そんなの無理だろ」
「どうだろうね」
「素直に無理だって認めろよ」
「生憎諦めが悪くてね」
「ムカツク」
「うん。それで、今は?」
「……これでいい」
「よろしい」
畜生、と悔しくて呟いた声が服を通して相手の肩に響く。それをまた服越しに感じて、エドは眉を顰めたままその肩に強く額を押し付けた。
あぁ、本当に。よりにもよってこの男の傍で、こんな醜態晒すなんて。
少し冷えた身体を温めながら、口の中で何度も悪態を吐いて、エドは本当に融けそうな自分の瞳を留めるために必死に瞼を閉じた。