ぽっかりと闇の中に真ん丸い空洞。
闇を照らし輝くそれは、裏腹に空虚。





 気晴らしでも気分転換でもなく、エドは慣れた石畳の道を歩いていた。
 晴らしたいと言うほど気が滅入っているわけでも、転換しなければならないほど塞ぎこんでもいない。


 ただ、月がキレイだったから。


 そんなほんの気紛れで歩いていた道すがら、見上げた空に浮かぶそれは思いの外キレイで、どちらかといえば機嫌は僅かに右肩上がりだった。
 そして少し高くなった所への通りに設けられた階段に座って思わずゆっくり眺めてしまったのはそんな機嫌と気紛れが起こした偶然だった。

 今ではそれが悔やまれるばかりである。

 人の気配に振り返ったそこに見慣れた軍服を認めて、エドは思わず嫌そうに顔を歪めた。
「……げ……」
「やぁ、鋼の」
 あからさまに顔を顰めたエドとは対照的に、ロイの顔は嬉しい偶然を喜んでいた。素直に、というには語弊があるもののそもそもそう素直に笑むような人間ではない。
 傍らに有能な片腕がいないということは、仕事中ではないのだろう。定刻より遅いが、家への帰途だとすぐに思い当たる時間だ。
「いつもと違う道を選んだのは正解だったな」
「寄り道しないでさっさと帰れよ」
「その言葉、そのまま君に返したいところだがそうはいかないね」
「……なに?」
「帰られてはつまらないだろう?せっかく君を捕まえたのに」
 言われた言葉に思わず「帰る」と言いたくなったエドだったが、それはそれで癪な気がする。だからといって素直に付き合うのもどうかと思う。
 そうこうしているうちに首が痛くなってきたことに気付いて、エドは改めてロイを睨み上げた。
「見下ろすな」
「立ち位置的にも身長的にも無理な注文だな、それは」
「っ!じゃあ屈め!」
「屈んだところでそう変わりはしないだろう。君が上ってきたまえ」
 正論である。
 だからと言って素直に飲み込めるかどうかはまた別の話。
 心の中で呪いの言葉を数え切れないぐらいに吐き出しながら、エドはしぶしぶロイの傍まで階段を上る。そしてやはり同じ段では届かない身長差を恨みながらもう二段上に足を運ぶ。
 そんな行動をしっかりと見届けたロイは、エドが足元から視線を上げる前に少年から空へと目を逸らした。




 実のところ、エドが振り返るその数分前からロイは階段に座り込んだエドに気付いていた。
 偶然に見つけたのには違いないのだけど、すぐに声をかけなかったのはその瞳がいつになくひたむきに空を見上げていたから。
 なのに隣に立つ少年はいつも通りに悪態を吐きながらも傍にいて、それがあまりに変わらない態度だから余計に。
 空に穴を穿ったように見事に丸い月。それでもそういうものに対する真摯で敬虔な態度とは程遠い生活をしているのも知っているから、ロイは声をかけることを躊躇っていたのだ。


 確かにそれは見惚れるほどの輝きを放っているのだけれど。


「凄まじいね」
「……あぁ。大佐はそう思うんだ」
 月を見上げての言葉。ロイが何を指したのかは明白で、エドはそれに微妙なニュアンスで頷いた。
 まるで自分は違うことを考えていたというようなその声。
「君は?」
「…別に。フツー」
「それなのにこんなところに座りこんで見上げていたのかい?」
「いや。だからさ、キレーだな、と思って」
「それだけか?」
「しつこいな。何だと思ったんだよ」
「いや……」
 実際他意もなくエドはそれを『キレイ』だと言っている。そこには何の執着も見えない。ロイにはそれが逆に不思議でならなかった。
「『言葉では表せないほどの』って言うだろ?その際たるものが"光"だと思ってた」
「光?」
「太陽光にしろ、月光にしろ」
 降り注ぐ柔らかなそれは日中のそれとは違うが、エドはまぶしそうに空を見上げ目を細める。
「感触はないのに確かに存在して、視覚を補って時に奪う。崇めたくもなるかもね」
 それが本当に本気の言葉でないのは見て取れた。それでも彼らしくない気がして、ロイは意外そうな目でエドを振り返る。エドの目線はまた月に戻っていて、ロイの訝しむそれには気づいていない。
 と、唐突にその視界にロイを映したエドはいきなりぶつかった視線にぎこちなく笑う。
「ちょっともったいないこと考えちゃってさ」
「勿体無い?」
「きっとあれも、文字と数式で解明できるんじゃないか、って」

 思った瞬間に色々仮説や仮定を組み立てている自分が笑えた。

 そういって本当に自嘲する、その間にもエドの頭の中はこの足元に影を落とす空の穴の恩恵を解き明かそうとめまぐるしく働いているのだろう。
 例えばこの手の甲の上を覆う手袋に描かれた陣のように、その光を解き明かす形を求めて。

 それは"憂鬱"と言ってしまうにはあまりに純粋な探究心で、"好奇心"で片付けるには難解に過ぎる欲望。

 横目で窺ったその視線はじっと夜空の穴に向いていて、その視線を不意に奪いたくなったロイはポケットに突っ込んだままの白い手袋に覆われた指先を鳴らした。
 細い電流のような練成反応を辿った先に小さな鬼火。一瞬照らされた少年の視線が確かにそれを追う。
 それを見て、ロイは徐にその手をエドの方へ伸ばした。


 所詮感情の揺れ動きは電気信号の複合だと分かっていても、ロイはそれを。

 愛おしい、と。


「……逃げないのかい?」
 頬にひたりと手を当てて覗き込んだ顔には、まるで空のあの月と同じように丸く見開かれた瞳が2つ。
 じっと動かないそれの少し上。瞼の端に唇で触れると、エドが小さく反応した。
 やっと身を引こうと動いたエドに気付いて、ロイはその唇に軽く触れるだけの本当に簡単で柔らかなキスを落とす。
 頬に触れていた手が離れると、エドは目の前のロイの肩を軽く押しのけてその横をすり抜け、階段を駆け下りた。
 不意に最後の一段で一度振り返ったその顔は、ロイには逆光で見えなかったけれど、その声はしっかりと耳に届いた。
「……先は遠い、か?」


『月狂いってことにしとくから』


「私はそんなものに惑わされやしないのだけどね」
 今日のところはそういうことにしておこう。
 翻った少年の髪の色を思わせる色の光源を見上げて、ロイは苦笑交じりに呟いた。










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