閉館時間間際になってようやく本から視線を外したエドは、ふと見た窓の外の暗さに顔を顰めた。
時間的には夕暮れ。オレンジ色に染まるはずの町並みはどんよりと濁り色で人気が少なく、足早に家路を急ぐ人も目に入る。
いくつかの本を書架に戻し、片腕に抱えられる本を2冊借りて図書館の出口に行けば既に空はじわじわと涙し始めていた。
本がなければ走って宿まで戻るところだが、2冊もある本を濡らさずに帰る自信はさすがになかった。ビニール素材のものでもあれば本をカバーして帰れるかもしれないが生憎そんなものそうほいほいと転がっていない。
うんざりと見上げた空から視線を落とし、エドはエントランスから外への階段に座ってだんだんと強くなる雨音の中に煙る街並みをぼんやりと見回す。
ちらほらと見えるのは傘を差し歩く人。そんな中、見通しのきく通りに不意に青い人影を見つけた。
傘を持たないその人は、水溜りを蹴散らしながらエドのいる方へと走ってくる。
その人影の正体を掴んだエドは、さっきよりいっそううんざりと顔を顰めた。
エドのいる屋根下の階段を上る途中で相手もエドに気付いて目を丸くした。
「鋼の」
「『館内水気・火気厳禁となってマス』」
「雨宿りくらい構わないだろう」
ふ、と面白げに笑ったロイにエドはまったく正反対の顔を見せた。
「湿気た日にずぶ濡れの大佐見ると嘲いたくなるね」
「の割に随分なしかめっ面だな」
「あんたが楽しそうだから」
「成る程。これでも今日はとても楽しい1日ではなかったが」
ロイの言うところの"楽しい"の基準が分からないエドは、つまりはいつも通りなのかそれともいつもより不愉快だったのかと考えたが、馴染みの供も付けずにびしょ濡れの時点で後者が正解だろう。
「なんかあったの?」
「別に君の気にするようなことじゃあないが、ね」
「あ、そ」
揶揄を含みながら言外に『訊くな』と言っているロイの態度に、エドは訊く気もないという反応をしてみせた。
途切れた会話を再び繋げる努力は惜しい。そう考えてエドは持っていた本を両腕で抱え直した。さすがに片腕に持ち続けるのは疲れる。
せめて閉館時間があと1時間遅ければ、と思いながら足元を見ると、ロイの立つ側にぽつりぽつりと水の染みが増えていくのが視界の隅に入った。
髪の端や服の裾から落ちる雫に既視感を覚えて顔を上げると、石造りの階段が目に映る。
あぁ、そうか。
軍舎の前の階段の途中。濡れた感触が纏わりつく中、見たのは背中と少しだけ振り向いた横顔だった。
自分の視界も雫に煙っていた、あの雨の日。
「そういや」
「ん?」
「あんた傘持ってないの?」
「……見ての通りだが」
「今じゃなくてさ、家とか、軍舎に」
「あぁ…なくはないんじゃないか」
「うわ。適当」
「あまり普段多くは使わないからな」
「あ、やっぱ湿気た日は外に出られないんだ」
「そういうわけではないが…いちいち面倒だろう?」
「ハゲるよ?」
「やかましい。」
傘で片手を塞がれた状態はあまり軍人としてはいただけない状況だろうということを知っていながら揶揄えば、憮然とした表情での一言。意外と気にしているのかもしれない。
「そういう君は?」
「持ってないよ。邪魔になるし」
「雨の時は」
「雨宿りして待つ。場所がなければ諦める。でもどこでも結局足止めくらう」
「そうか」
頷いたそこに少し奇妙な納得があった。
よく考えれば旅先の些細な出来事をこの相手に喋ることはあまりなくて、そして逆もしかり。それに気付いてエドも妙に不思議な気分を味わった。
「傘が、どうかしたのか?」
「え、いや…」
一瞬鈍った反応がなにか変に気持ち悪くて、エドは軽く首を振った。
「傘ってさ…あんな色々種類あるんだな、と思って」
「……そういえばそうだな」
普段気にかけないものの認識なんてそんなもんか、と思いながら道行く人が持つカラフルなそれをぼんやりと眺める。
「日傘ならよく見かけるが…」
「『どこぞのご婦人とデートの時に』?」
「総じてレースつきの白か黒が定番だな」
「『手袋とコーディネートしたりして、"よくお似合いですよ、奥さん"』?」
「……誰に聞いた?」
「ハボック少尉」
「あいつか……」
『ご愁傷様、少尉』と人事のように口の中で呟いて、エドは明後日の方向を向いて拳を握っているロイを見上げた。
それはひときしりの復讐プランに立てが終わったロイが胡散臭い笑顔で視線を戻すのにぶつかった。
「しかしさすがに人妻に手を」
「『出さないとはいえないんじゃないかなぁ、あの調子だと』って。他人の恋人には手ぇ出してるんだろ?その時点でダメじゃん」
「……君はハボックといつそんな会話をしているんだ」
「さぁね」
「上司の私事にいらぬ想像する余裕があるということか」
「オレの口からはなんとも」
嘯いたエドに諦めからかロイは溜息をついただけだった。
再び途切れた会話。
何かを紛らわせるように繋げた言葉が途切れれば、また目の前にちらつくのはあの雨の日。
違う。あの日はもうとうに過ぎた。
苦い記憶を振り切るように瞼を落としても耳に入るのはあの日と同じ痛いくらいに響く雨音。それが余計に記憶を呼び起こすようで堪らなかった。
「………思い出しているのかい?」
不意に落ちてきた言葉に目を開く。
明確に"なにを"と言わなくても、言いたいことはすぐに分かる。
肯定も否定もしないエドに視線を向けず、ロイは濁り色の空を見上げていた。
それ以上言葉を重ねるわけでもないロイに苛立ちを募らせながら、エドは逆に何を言われたところでそれもまた苛立ちの種にしかならないと自覚していた。
それでもなにも言われずにじりじりと嫌な気分だけを増やしよりはマシだと思う。
「難儀だね」
これもまた唐突に零された言葉。だがそこには自嘲めいた苦い笑いが含まれていて、エドはなんとなく毒気を抜かれてロイを見た。
「そうやっていちいち覚えて思い出すのか、君は」
「……悪いか」
憮然と呟く。どことなく八つ当たりに近い口調。
「賢くはないね」
「……あんたには、ないって言うのか?」
似たような面影を日常の何かに見出して思い出して不意に苦味を噛み締める。
そんな想いは。
「忘れたよ」
ふ、と浮かんだ皮肉の混ざった笑み。
青い空だった。抜けるように晴れ渡った、キレイな青空。
いっそ憎々しいくらいに。雨の気配もないあの空からそれでも雨は降った。
そんなこと、忘れてしまうに限る。
「雨は旅人の足を止め、私の発火符を濡らすだけだ」
それ以上でも以下でもない。とでも言いたげなロイの言葉に、エドは頷くことはしなかった。
ロイがエドの旅路を知らないのと同じように、エドはロイの日常を知らない。
お互いの心情を察するには少々距離が遠く、慰めるには近過ぎた。
「そろそろ止みそうかな」
「そうだな」
弱まり始めた雨脚に改めて空を見上げれば、端から雲間が見え出している。
相手にかける別れの言葉を見出せないまま、ただじっと灰色と青色を混ぜた空を2人は黙って見上げた。
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