プラススパイス
何故だか懐かしい感じがした。
そこに立っているのがこいつじゃなければ素直に感慨にふけっても良かったかもしれないけれど。視線を動かすのも躊躇われて、綱吉はほんの僅かに身じろぐだけだった。
埃っぽいのにどこか湿った空気が漂う廊下の隅。廃墟の中の薄暗く独特な雰囲気に呑まれるように沈黙したままもう十数分が経った。それまで隣りにいたのはクロームだったのだが、何かに気付いたみたいに急に足を止めた彼女を振り返ってみれば既にそこには骸がいた。
黙って立っている彼に声をかけるタイミングを逸した綱吉は、そのままぼんやりと立っていたのだがいい加減退屈してきた。
(いや、そもそも俺が狙われてるせいでこんなとこに入っちゃったんだけどさ)
そして立ったまま動かない骸も、よく見れば右目に不安定な光を宿しているのが分かる。
(邪魔、だよな…声かけたら)
彼が何をしているのか分からないが、変なところで綱吉は彼を信頼していたので危機感は薄い。たとえ彼が未だに自分の身柄を狙っているのだとしても。
(…こういう廃墟にいるせいかな)
退屈しのぎに懐かしみを覚える理由を考えてみる。彼と初めて会ったのは荒れ果てた建物の中だった。だけどあれは思い出しても懐かしむというよりは恐怖を覚える記憶だ。
思い出した情景にふるりと身を震わせる綱吉の前で、不意に骸がゆっくりと息を吐いた。
あれ。
甘い匂いが、する。
一瞬で薄れた香りを辿るように綱吉は足を踏み出した。多分懐かしいのはこの匂いだ。嗅覚に意識を集中して考える。なんだっけ、これ。
「…ボンゴレ?」
思いの外明確な声が鼓膜を叩く。は、と気付くと随分と近くに骸の顔があった。
「!あ、ごめ…なんか…甘いにおいがして気になって…」
しどろもどろに弁解する綱吉が無意識に後ずさる。だが綱吉が下がる距離より骸が咄嗟に詰めた距離の方が大きかった。
「
――― ん、む」
舌先で押し付けるみたいに口内に何かを入れられる。
「っ、?」
慌てて身を引くと、歯に当たってカロンと音が響いた。
「あ…め?」
「僕には甘すぎます」
目を瞬く綱吉から、不快げな表情で骸は視線を逸らせる。
ころりと口の中で遊ばせてみた飴は確かにさっきから感じていた懐かしさの正体だった。小さい頃に食べた覚えがある。
だけどどういう経緯でこれが骸の口に入ったというのか。
「クロームに、あげたでしょう。貴方が」
不思議そうな顔でもしていたのか、骸が付け足すように言う。
「あー…あの缶入りドロップか…」
言われてようやく思い出した。二ヶ月くらい前の事だ。なんとなく懐かしくなって買ったそれは自分で食べるに至らず、彼女の手に渡った。特に意味はなかったのだが、「大事に食べるね、ボス」と言っていたからとりあえず喜んでもらえたんだろうと思っていたけれど。
もしかして本当にクロームはそれを大切にしていて、だから骸も吐き捨てるような真似が出来なかったのだろうか。
そう考えて、思わずじっと凝視していたら苛立たしげに睨まれた。けれど今はそんなに恐くない。
「…なんですか」
「いや…甘いってすごいね」
「…?」
訝しげに黙った骸に苦笑する。だって今の彼に向かって「ずいぶん優しくなったなぁ」なんて言ったらきっと本気で我が身が危うい。
↑
(子供じみた飴玉の味が意外だった)
病みつきになる前に
にがい。正直な感想を零すと相手が一瞬きょとんとした顔を見せた。だけどすぐに思い当たったのか申し訳なさそうにその目尻が下がる。
スミマセン、の言葉が出る前にと綱吉は慌てて口を開いた。
「嫌なわけじゃなくて!」
勢いで言った後にちょっと後悔した。獄寺君は分かり易すぎる。
「えと…止めろとは言わないけど、体に悪い物だからさ、その…」
吸い過ぎないようにね。恥ずかしさを引きずって赤くなった頬を誤魔化したい気持ちもあって、やや口早に綱吉が言う。明るい表情で、分かってるのかどうなのかひたすら真っ直ぐに頷く相手は何かまた瑣末な事で10代目の素晴らしい部分を発見しているんだろう。
(でも親しい人の体調気遣うのってフツーの事だよね…)
それを無理矢理『部下を思いやる心』と名づけてボスとしての心構え的に捉えるのはどうにかならないんだろうか。ならないから綱吉は悩んでいるわけだが。
(その流れでいくと俺が「止めて」って言うのもなんか恐いし…)
彼に対する影響力を自覚しないわけにはいかない。止めて欲しいのは山々だが、命令として聞いてもらうのもなにか違うと思う。綱吉は出来ればそんな強制のような事を彼に押し付けたくはなかった。
――― のだが。
「今思うとあの時止めておけば良かったのかなぁ…」
見慣れてしまった煙草のパッケージを手の中でもてあそびながら綱吉は呟いた。
染み付いた匂いはなかなか消えないものだ。人がそれに慣れる方が遥かに早い。
幾度か味わっているうちに苦い味にも慣れた。慣れてしまうと今度はその後が問題になる。
(口寂しい…)
これもある意味中毒なんだろうか。だけど手の中にある煙草に火を点けて吸ってみても治まらないのは分かっている。
(止めてみないかって言ってみようかな…今度こそ)
煙草が彼に必要な物なのは分かっているけど。
だってやっぱりそれは体に良くない。
特に、自分の心臓に。
(…言えないかそんなの)
諦めるように独り微笑って、吸いもしない煙草の箱は再び机の引き出しの奥へと隠された。
↑
(だからタバコは止めてっていったのに)
無理は不承知
口に口がくっついて、舌が舌に絡め取られて。
そんな状態になってもまだ、状況が理解できなかった。
「っひ、はひ…ひょ、むー!」
舌を取られてるせいでまともな言葉にならない。いや、たとえ喋れてもちゃんとした言葉にはなっていなかった。
むがむがと抵抗していたら、それはまた唐突に剥がされた。
「、あにすんらよひぼーん!」
「誰だそれ」
慌ててつけた文句もうまく呂律が回らない。嘲笑でもって跳ね除けられたそれに悔しさを感じる暇もなく、もう一回舌を舐められた。
「!らから、」
言いかけて、止める。舌を捕られたままじゃあ意味が無い。
まず相手の薄い肩を掴んで引き剥がそうとしたけれど、小さな体のどこにそんな安定感があるのか(それとも自分の力がなさ過ぎるのか?)、押し戻そうとしてもびくともしない。仕方がないからその肩を支えにして逆に自分の体を後ろに突き放した。
二人掛けで少し余るソファの端まで逃げたところで相手がいるのがど真ん中だから大した距離は稼げない。とりあえず綱吉は前に出しっぱなしの腕を振って相手を牽制した。
「いきなりなんだよ!?」
「いきなりじゃなきゃいいのか?」
「揚げ足取るなよそういう意味じゃないから!」
「じゃあどういう意味だ?」
「そもそも意味が分かんないって言ってんだって!」
畳み掛けるような問いに詰まったらそこで終わりだ。付き合いも長いのでいい加減ダメツナでも学習する。だけど、
「なんでいきなり、その…」
勢いづいたところで言葉が萎んだ。そういえば今なにをされたんだろう自分は。
(キス?キスなのかこれ?)
「今頃そんなとこ悩んでんじゃねーよ」
「読むな!だってだから意味分かんないだろ!」
今さっきまでは、ハルがお裾分けにと持ってきた苺のケーキを味わっていただけの単純なおやつの時間だったのに。隣りでくつろいでいたリボーンは、ケーキの味を甘すぎると言いながら苦すぎるエスプレッソで口直しをしていたはずなのに。
何をどうしたら今のこの妙な状態に陥るというのか誰か教えて欲しい。
「それはだな、」
「結局お前が教えるのかよ!」
「たりめーだろ。俺はお前の家庭教師だぞ?」
納得のいかない帰結をした話に唖然としている間にまた易々と距離が詰められた。もう後が無い。
「お前があまりにもマヌケ顔でケーキ食ってるから」
「ケーキ食べてる時ぐらい気ぃ抜いてもいいだろ!」
「いついかなる時も敵の襲撃に応じられなきゃダメだぞツナ」
「食べてる最中にいきなりキスしてくる敵なんて想定しないよ普通!」
「…お前には必要だと思うんだが…」
「なにボソっと呟いてんのー!?」
「まあマフィアのボスがキスのひとつもまともに出来ないんじゃ不憫だろ?」
「いらないよそんな気遣い!」
叫んで逃げ出そうとしたが、知らぬ間に片足を押さえつけられていたせいで込めた力が空回り、後ろ頭を肘掛にぶつけた。それでもどうにかもがこうとしてふと気付いたのは未だ自分の右手がフォークを固く握り締めているという事。手放す暇がなかったとはいえかなりマヌケな図だ。
このマヌケな装備で戦ったボンゴレボスもいたというのだから驚きだ。いっそ今自分が使えたらいいのだけれども、さすがにこの場でリボーン相手にフォークを振り回す気にはなれない。下手に当たったらどうしようなどと、ほぼありえない気配りをしている自分に気付かないまま綱吉はぬるい金属フォークをただ縋るように握り締める。
「嫌なら、」
ピントが合わないくらいに近付いた顔に思わず目を閉じると、すぐそこでリボーンの声がする。
(嫌なら?逃げろって言われても逃げられない状況に立たせてるのは他ならぬお前だぞリボーン)
心中の文句は多分読まれていると思うのに、リボーンはそれを無視して続けた。
「誰か他の奴想像してろ」
言葉と一緒に吐息がかかる。意味を掴み損ねたその一瞬に、キスだと認識させられてしまった行為が繰り返される。
誰か他の、人?
頭の中で言われた言葉を反芻してみる。だけど、考える前に舌が伝える香ばしい苦味がどうしたって。
(…リボーン、だし)
綱吉の中ではすでに、珈琲の香味は彼のものだとインプットされてしまっているらしい。少なくともエスプレッソを日常的に嗜む身近な人物なんてリボーン以外に思いつかない。
不意打ちの時よりも長く続くそれに、だんだんクラクラとしてきた綱吉は思考を諦めた。
「、は…」
ようやく解放された時には、握っていた筈のフォークが手から離れていた。水分が膜を張ってしまってよく見えない視界の中で探しても、その銀色は見当たらない。
「探し物はこれか?」
声に反射的に視線を動かせば、探していたフォークがケーキの上の紅一点を突き刺さしているところだった。
周りのクリームを僅かに巻き込んで剥がされたそれは、まっすぐリボーンの口に届けられる。
「おま、それ、」
俺の、と続けようとした声がせき止められる。口の中にはさっきと違う爽やかな苺の酸味とクリームの甘味。
「美味いか?」
咀嚼しながら、辛うじて綱吉は頷いた。
(やっぱ読んでたな…)
でも今更味を変更されても、と苺を噛む口の中でささやかな文句は砕かれた。
↑
(このヘタクソめ、あとで練習だ)
単独スチール
ふと落ちた沈黙で、そういえば今日は獄寺君がいないんだと確認するように思う。
屋上で山本と二人きりの昼食。いつもはここにもう一人居るのが当たり前で。
(当たり前になってる…のが、なんかすごい)
箸を銜えたままで笑うと気付いた山本に「どうした?」と尋ねられる。
「獄寺君いないとなんか静かだなーと思って」
考えていた事すべてを素直に口に出す事はどこか気恥ずかしくて、少しだけ違う事を言って誤魔化す。山本はそんな綱吉の内情には気付かずに頷いた。
「ここんとこ結構ずっと一緒だったからなんか調子狂うっていうか…」
「そう言われてみると確かになー」
頷きながら山本は大口でぱくりとパンを齧る。のんびりちんたら食べてるせいで減りの遅い綱吉とは逆に、山本はもう既に持参の弁当を食べ終え、購買で手に入れたパンもそろそろなくなりそうだ。
「あれ…山本なんか急いでる?」
「ん?あれ言ってなかったっけ。今日昼休みに野球部のミーティング入ってんだ」
「ええ!?じゃ、じゃあこんなとこで一緒に食べてる場合じゃないんじゃ…!」
急ぐはずの山本当人ではなく綱吉の方がよっぽど慌てる。そんな綱吉の様子を見て山本はカラカラと笑った。
「集合時間までにまだ余裕あるし、大丈夫だぜ?そんなに焦んなくても」
「で、でも」
「一人で飯食うのつまんないしな。今日獄寺いないし」
当たり前の事のように言う山本に綱吉はじんわりと感動していた。本当になんていい奴なんだ山本。出立前に「俺がいない間危険ですから護身用に」と正に危険物であるダイナマイトを置いていった彼と比べてみると涙が出そうだ。
「あ、でも。俺ももうそんなにかからないから、ミーティング優先させた方がいいよ」
「んー…そか?」
残り少ない弁当箱の中を示して綱吉が促すと、山本は食べ終わったパンの袋を手の中で丸めてゆっくりと頷いた。
「せっかくツナと二人っきりだったのになー」
「はは。何言ってんだよ山本」
茶化すような言葉に綱吉が笑うと山本も一緒に笑い、腰を上げかけた。だがその動作が中途半端に止まる。
「あ、」
「ん?」
「ツナ。口の端っこ、食べカスついてる」
「へ?どこらへん…」
尋ねながら伸ばしかけた手は、なぜか山本に止められて。
気付くと口の辺りを何かが掠めた。
「ん、とれた。ごっそさん」
いつもみたいに晴れやかに笑った山本が自分の持ち物をまとめて屋上を後にするまでを呆然と綱吉は見送った。
今のはなんだろう、とか。いやでも山本の事だし、とか。ぐるぐると回る言葉を手に取ったパックのお茶で流し込む。
なぜだか気にしたら負ける気がする。何にとかそんな疑問もさて置いて、綱吉はまだ少し中身の残る弁当箱に蓋をした。
↑
(何だよ、今の通り魔的犯行は)
できることなら
忘れてくれて構わない。そう告げた声はいつものように優しくて、だけど綱吉の耳には少し違う意味に聞こえた。
もっと必死で、厳しい言葉に。
(忘れろって…言ってるように見える)
酷く近くにある顔を呆然と見上げたまま思う。キレイな顔に浮かぶ表情が、痛そうに見えるのは錯覚だろうか。
それがいつものように他愛のないものであれば構わなかった。忘れていいと言う言葉のままに忘れる事だって出来たかもしれないけれど。
こんなに真剣に、秘めるように告げられた言葉を、そんな顔で『忘れろ』と言われても。
「無茶言うな、って顔してるな」
大きな手が顔の脇に添えられる。苦笑した顔はやはり今も強張ったままだ。
「だってディーノさんが…」
「俺が?」
「…苦しそうな顔、してるから」
言ってる自分の顔も情けないものになっているのだろう。困惑が顔に出ているのは既に指摘されてしまったので、今更繕う気力もない。
綱吉の言葉に、ディーノも少し困ったように眉尻を垂れた。
「これは兄貴分としての忠告だけどな、ツナ」
その前置きの続きの意図が、残念な事に綱吉には読み取れなかった。曰く、優しすぎるとか警戒心が足りないとか。
「ディーノさんの方が優しいじゃないですか」
反論に、何故かディーノは肩を落とした。
落ち込ませるつもりはなかったのにと慌てた綱吉を雰囲気で読み取ったのか、ディーノは宥めるように綱吉の頭を撫でる。
「ディーノさん?」
困ったように笑ったまま、顔を上げたディーノの目が優しげに細められるのを見て、綱吉は言葉を呑んだ。
「ツナ」
少しくらい警戒しろよ、と繰り返す相手に傾げかけた首。けれどそれはディーノの手で阻まれて。
「じゃないと、食べられちまうぞ?」
冗談めかしたその口が、裏腹な切実さを伴って綱吉の吐息を喰らう。
「、ん…っ」
反射的に離れようとした綱吉の顎を先んじてディーノの手が捕らえる。
珍しく強引なディーノの行動に驚きはしたが、それでも。
(それでも、)
ディーノ相手に警戒心なんて湧かないのだ。ましてや拒絶するつもりなんて。そう主張したら、もう忘れろなんて言われずに済むだろうか。
足りない酸素に覚束ない頭で考えながら、綱吉はゆっくりと瞼を閉じた。
↑
(どうやって呼吸すんのか聞いとけばよかった、かも)