Thou shalt love thy neighbor as thyself.
自分を愛するように隣人を愛せよ。
この言葉の矛盾をどうやって解消すればいい?
「『自分を愛するように隣人を』ってさ、要は『目には目を』ってこと?」
帰り道の暇潰しにしてはいささか高尚な議題をキラが振ってきた。
「ハムラビ法典?」
「なにそれ」
「『他人の目を潰したら同じようにやった人の目を潰しなさい』って法律」
「えー!?うわー!」
「お前意味も分かんないで使ってたのか?」
「なんか『同じように』って感じかな、って」
間違ってはいないが決して正解でもない答えを返して、キラは首を傾げる。
「じゃあ、『人に優しく』?とか」
「道徳的にはそうかもしれないな」
「なにその曖昧な答え」
「俺も別に正解を知ってるわけじゃないから」
「そうなの?」
「そうなの」
同じ言葉で頷き返すと、茶化されたと思ったのか不満げな目でキラがこっちを見る。
「なんだ。アスランいっつも『何でも知ってる』みたいなのにホントは大したことないんだ?」
「キーラー?」
わざと怒らせるみたいなキラの言い回しに呆れを含ませて視線を合わせる。
一日一体何回この名前を呼んでいるか分からない。
名前を呼ぶだけで、アスランは自分の言いたいこと、というよりそれから彼に向かっていうだろう言葉の半分は伝わっているんじゃないかと思っている。
怒る、慰める、呆れる。名前を呼ぶときにどうしたって感情が絡んでトーンが変わる。それをきちんと聞き取って、キラは肩を竦めたり、俯いた顔を更に背けたり、困ったように笑ったり。どうにかはぐらかそうとしたり、まるで無視しようとしたりしても結局こちらの言いたいことは分かってる。基本的に頭はいいし察しもいい。現実に向き合うのを嫌がるだけで。
「あ、そういえば今日新しいソフト出たんだよ!」
先を続けさせないように、とキラが出してきた話題は、だがどちらかと言うとハズレだ。
「宿題やってからな」
「帰ったらやろう」と言い出すキラを見越して言うと、キラは唇を尖らせた。
「えー。いいじゃん。早くやりたいでしょ?」
「ソフトは後でもできるけど、提出期限は待ってくれないだろ?」
「いいじゃんちょっとだけ」
「ダメ」
「アスラーン」
「ダメだったらダメ」
「けち」
「けちじゃない」
「もーどうしてそうアスランは煩いんだよ」
「お前が煩くさせてるんだろ?」
「じゃあ僕のことなんか放っておけばいいのに!」
いつもの癇癪みたいな暴言。
アスランは反論しかけて、やめた。
はぁ、と深めの溜息を口から漏らすと、微かにキラの肩が揺れる。
本当に放っておいたら、キラはどう思うか。
きっとどこかで構ってこないアスランに不安になって不満を溜めて、でも自分からはどうにも言い出せなくて意地を張るんだろう。
アスランにはありありとそれが思い描けるのに、キラ自身はまるでそんなこと想像もせずにそうやってその場の思いつきと勢いで言葉を吐く。
一事が万事その調子のキラに、時々無性に悲しくなる。
キラにとっての自分が、特別なのだという自負はある。
特別仲のいい友達、というより既に家族のようで。親友なのに兄だったり弟だったり、時々お母さん役まで押し付けられてる。
それが嫌なのかと訊かれれば、そうでもないのだが。
そうでもないのだ、が。
「分かった」
「え?」
「放っておく」
「……え?」
「今日の宿題は独りで頑張れるってことだよな?」
「っアスランなんかいなくても、出来るよ!」
「うん。出来るよな」
売り言葉に買い言葉。
予想通りにそうきたキラに念を押すと、アメジストの瞳に色々な感情が浮かんで見えた。怒ってたりとか戸惑ってたりとか。
でも、いい加減キラも分からないといけないんだ。自分で出来るってこと。
傍にいなくても、平気だってこと。
「じゃあまた明日」
我ながら突き放すみたいに冷めた声で背を向けると、キラが後ろで息を呑んだ。
ここで振り返ったら負けだ。何になんだか分からないけど、負けたくない。
でもいつものパターンなら、この後キラが結局泣きついてきてくることになる。それを仕方なく許してしまう自分がいる。
軽い悪循環。それを断ち切る事が出来ない自分がいる。
理由なんて深く考えたこともないけれど、どうしてもキラに縋られると突き放し難い。
自分から背を向けたというのに、アスランは数歩も行かないうちに妙な感覚を背中に感じた。柔らかな棘で緩やかに引っかかれているような、むず痒く微かな苛立ちを誘うプレッシャー。思わず顔が歪む。
きっかり5歩を歩くと、息を一度吸って、吐く。
振り返りざまに見えるだろうキラの膨れっ面を想像して。
「キ…ラ…ぁ?」
想像して。
現実は予想とは違って。
泣いていた。
一瞬言葉を失ったアスランに気付いたキラは、慌ててごしごしと目元を拭う。
「え、違、これは…あれ、えっと……だから……」
本人も自覚なく泣いていたらしい。慌てふためいて零れ落ちる雫をなかったことにしようと無駄な努力を続けるキラに、アスランはもう一度深く息を吐いた。
それは反則だ。
別に深い意味はない。縁を切ったわけでもない。「また明日」って言ったのだ。続く未来を無責任にではあるけれど望んだ。いつものことなのに。
それなのに、キラがこの日常的で些細な反発にここまで過剰な反応をするとは。
「誰だって情緒不安定な時はあるってことか」
「何?」
「なんでもない」
首を振って、進んだ5歩分を3歩で戻る。
「先に宿題だからな」
無駄だと思いながら釘を刺して、キラの手を取る。
引きずられるように歩き出したキラは、しばらくぼんやりとその手を見ていたが、その表情はやがて嬉しそうに綻んで。
「うん!」
珍しくも殊勝な返事が反故にされる予感を覚えながら、それでもいいか、と思ってしまう自分を咎めることはできなかった。
自分を愛するように隣人を愛せよ。
でも相手を思う分自分を疎かにしたり。それでも自分が幸せだから愛は成り立つのかもしれないが、自分と同じようになんて土台無理な話。
自分の益と隣人の益は必ずしも同時に成り立つものではない。それはどうやっても叶うはずのない訓辞ではあるものの。
結局、君が笑ってくれさえすれば、と思う時点でもう。
まだアスランもお子様ランチな時で。(何)