それは5歳の誕生日だった。
はじめまして。
「おはようございます、ははうえ」
「おはよう、イザーク。丁度良かった」
「なにか?」
居間に入った途端、いつもと少し種類の違う笑みを浮かべたエザリアに気付いたが、イザークはその原因を掴みあぐねて訊ねる。
その問いは、とても5歳児のものとは思えないほど落ち着いたものであったが、いかんせん幼い声は威厳には欠けていた。
「あなたに紹介したい子がいるの」
硬質なイメージのある顔にフッと笑みを浮かべたエザリア。その表情と言葉にイザークは怪訝そうな色を浮かべる。
深い意味はまだ悟ってはいないものの、小さな頃から引き合わされる人間の殆どが名のある家の関係者、つまりは一般的なお付き合いに留まらず政略的な部分を含んでいるということを雰囲気で察しているイザークの賢い頭の中には、言ってしまえば『引き合わされる子』=『利害関係』≠『お友達』という図式がおぼろげに出来上がっている。
というかまともな意味で『友人』と呼べる人間がいないのだ。
だからこそエザリアの言葉に僅かな警戒を見せた。
そんな息子の小さいながら複雑な心情を察することなく、エザリアは自分の後ろに影のように隠れている子供に姿を見せるよう促す。
そうして目の前に出された子供と、イザークは顰め面のまま対面した。
見たことのある宝石に似た、紫の瞳は微かに浮かんだ涙に濡れて光っていて、薄茶色の髪は以前ペットショップで見かけた子犬にそっくりだ。
ただ、怯えるように震える様子は、今までにあまり見たことのない反応だった。
いつも引き合わされる人間は、大概尊大というか、どこか無理に誇張しようとする雰囲気や、子供らしい無邪気さと無駄なエネルギーを発散させている者ばかりだったのだが、目の前の子供はそれとはまったく違う反応を見せていた。
「イザーク?」
反応せず、ただじっと相手を凝視したままの状態を訝ってか不思議そうに声をかけられ、イザークは我に返った。
「イザーク・ジュールだ。……おまえは?」
母の手前、一応というように手を差し出すが、相手は困ったように顔を顰めて、自分の服の裾をぎゅっと握り締めていた。
それに苛立ってイザークが更に表情を険しくすると、子供は零れそうなくらいに目に涙を溜めながら、頑なに握りこんでいた右手をどうにか服から剥がして、恐々とイザークの方に伸ばそうとする。
それがきちんと差し出されるのを待たずに、イザークはその手を取って、次の瞬間には放り出していた。
相手の反応を無視しようと視線を斜め上に向けると、僅かにしゃくりあげるような声が聞こえた。
「…この子は、キラ・ヤマト。歳はあなたのひとつ下」
それぞれの反応に苦笑めいたものを零して、エザリアは“キラ”の情報を伝える。
「これから貴方の弟として、育っていく予定」
「……おとうと?」
聞き咎めて、イザークは高い声でエザリアに訊き返す。
「と言っても養子ではなく、預かり、という形だけど。処遇は、そういうことね」
「どういうことですか?」
よく分からない、というようにイザークはさらに問うが、込み入った話をエザリアは話すつもりはなさそうだ。
「これから色々と面倒を見てあげなさい、イザーク」
頼んだわ、と付け加えたエザリアは、キラの背を軽く押し出すように叩くと、2人に背を向けた。普段から彼女は多忙の身だが、今日は特にイザークの誕生を祝うという名目のパーティーが開かれるせいで輪をかけて忙しいのだ。
取り残された2人は、お互いの反応を窺うようにじりじりとしていたが、やがてイザークはそれに厭きてエザリアと同じように部屋を去ろうとした。
多分放っておいてもメイドがなにかと世話を焼くだろう。そう思って。
だが背を向けた途端に、焦ったような気配がして、気付くと服を裾を掴まれていた。
もちろん、背後にいた子供に。
「……なんだ?」
「……………。」
目を潤ませたまま、多分必死で堪えているのだろう、振り返ったイザークの顔を見上げられずじっとカーペットに視線を落としたまま、それでも思いの外強く服を掴まれているためにイザークは動けない。
「あのな」
「………っく」
「その耳がかざりでないならきけ」
嗚咽が混ざりそうなのを遮るようにイザークが言うと、キラはゆっくりと顔を上げた。
その瞳には涙が溜まっているものの、先ほどまでの怯えは少し薄らいでいる。
そして、空いている方の手で、自分の耳を触った。
「……かざり?」
「きこえるならいい。泣こうが見つめようが、わからないものはわからない」
「?」
「つたえたいなら"こえ"にしろ。うざったい」
すっぱりと切り捨てるような言葉にまた少し怯えながら、キラはまた困ったように瞳を歪ませた。
察するに、環境の急変に順応できていないのだろう。だが例えば『帰りたい』と言われても彼がどこから来たのかもどういう事情があるのかも知らないイザークにはどうしようもないし、エザリアの言葉からして“帰る場所”があるとは思えない。
そしてそれが分かっているのか、それとも自分の状況を言葉にすることが出来ないのか、キラはなにを伝えようともしない。
それでも服を掴んだ手は離れない。
「どうしてほしいんだ?……キラ」
付け足すように呼べば、驚きが紫色の瞳に広がる。
ぱたぱたと瞬きを繰り返し、その度に堪えていたはずの涙が転がったが、気にする様子はない。
しばらく口を酸欠の魚のように開閉させた後、キラはやっとひくつく喉を震わせた。
「……い、」
「い?」
「いかないで、ほし…」
「ムリだ」
ようやく口にした言葉を即座に却下され、キラは一瞬にしてまた瞳に涙を溜めた。
それを見ながら、イザークはマイペースに先を続ける。
「これから朝食をとらなければいけないからな」
「……ごはん?」
イザークの言葉を理解して、キラは握り潰していたイザークの服の端を放そうとした。
だがその前に更にイザークの言葉が重なる。
「おまえもだ」
「………ぇ?」
「おまえも、たべるんだ。ついてこい」
そのまま歩を進めれば、服の端を掴んだまま、放し損ねたキラはつられるように後をついてきた。
それをちらりと振り返って確かめて、イザークはそのまま朝食の運ばれるダイニングへと、いつもより少しゆっくりとした速度で向かった。
同じテーブルについて、運ばれてくる食事を口に運ぶ。
それとなく様子を窺うと、慣れないながらどうにか食事をしているキラがいる。向こうはイザークを窺う余裕も無さそうだ。
懸命な仕種のわりに、食欲がないのか喉を通るものはとても少ない。それとなく周りにいた者たちに助けられながらも、まだ泣きそうな顔で小さな口を動かしている。
飲み込むのを邪魔している原因のひとつがその微かな嗚咽だろうことは見て取れた。
音を立てないようにフォークを置いて、イザークは席を立った。
それに気付いたキラも、慌ててフォークを置いて椅子から降りる。
傍にいたメイドの一人に『ごちそうさまでした』と言って、キラはイザークに走り寄る。
連れてきた時と同じように服の端を掴まれ、イザークは無言でそれを凝視した。
イザークの反応を待つようにキラはイザークを見上げている。
「……コイツのへやは?」
「お好きな部屋を、とエザリア様にはお伺いしています」
「わかった」
とりあえずどこかの部屋を与えて、放り出せばいい。そう思ってイザークはやはり服の端をつかまれたままの歩き出した。
「どこがいい?」
「ぇ?」
「へやだ。おまえの」
「お…へや?ぼくの?」
廊下を歩きながら訊ねると、ほぼ鸚鵡返しの応えしか返らない。
主張するという行為を知らないのか、と思うくらいにキラは要求するということに疎い。それは恐らく自分から要求する前に周りに与えられてしまったか、もしくは彼の生来の気性のせいか。
どちらだとしても、イザークが欲しいのは彼のはっきりとした主張であって、それができないことへの原因追求ではない。
「あまりのへやはたいがい同じようなものだからまずえらべるのはばしょくらいだ」
「ばしょ…」
「へやのばしょだ。あと、まどが大きいとかながめがよいとか高いところとか…」
言葉の少ないキラからの返事を明確にするためにイザークは選択肢をいくつか提示することにした。ただそれは矢継ぎ早なせいでキラは全ては把握できていなかったが。
「どこがいい」
2階へ上がる階段の前に止まって、イザークはキラを振り向く。
「え、と。えと。えぇ…と…」
イザークは自分の与えた選択肢の多さがキラの許容範囲を超えていることに気付かず、イライラしたままキラの答えを待つ。
だが次にキラから発せられたのは、イザークの待つ答えではなく。
「いざぁくの、へや、は?」
「は?」
「……どこ?」
端的ながら、少しは発展した会話だ。なにせ鸚鵡返しでない疑問文である。
答えじゃない言葉に更に苛立ちながら、イザークは仕方なく答える。そうでもしないとキラとの会話は成り立たない。
「2かいのひがしにある」
それでどこだとキラが分かるわけがないが、そもそもキラになんと言おうとどこがどうなっているかなんて分からないのだから、考えれば初めから意味のない質問である。
「ぼく、のへやも、」
「?」
「いざ、くの、そば、がいっ」
泣いていたのを引きずっているのか、しゃっくりを間に挟むようなキラの言葉は聞き取りづらいが取り敢えず。
『イザーク(の部屋)の傍(の部屋)がいい』
ということだろう。
はっきり言って“これ”が傍にいるのは面倒だと思ったが、それ以外の部屋をあてがって更に泣かれても面倒だ。
「……分かった。付いて来い」
言われなくても付いてきそうだが、了承の意味でそう告げて、イザークは前を向いた。
「ころぶなよ」と釘を差すことを忘れずに。
結局自分の隣りの部屋をあてがうことにして、イザークは扉の前でセンサーに「Open」と告げた。
認証コードを叩くにも、ボードに手が届かない身長なので、家の殆どの鍵には声紋センサーを取り付けてある。
脳内の予告通りにその部屋にキラを入れ、適当な説明をして、イザークは部屋を出た。ドアを閉めれば勝手に鍵はかかる。
ようやく、と自分の部屋に戻ると、待ち構えていたかのようにメイドからの通信が入って『パーティーの支度を』と急かしてくる。
同年代の子供を多く呼んでいるパーティーは庭での立食式だから、そろそろ用意をしなければいけないのだ。
「わかった」と告げて通信を切って、メイドが支度の手伝いにくる前にと揃えられていた服に手を伸ばした。
* * *
青々と茂る芝の上に並べられた白いテーブル。そして清潔な白いテーブルクロスの上にはサンドイッチなどの軽食が載っている。
そして子供の『あれを取って』という要求をすぐに聞くために、テーブルの傍にはメイドが邪魔にならないように慎ましやかに立っている。
「おめでとう、イザーク君」
「おめでとう」
「もう5歳になったのね」
「子供の成長は早いわ」
口々に祝いの言葉と世辞、そして世間話と噂話に発展していく話をエザリアの傍で聞きながら、イザークは祝辞に礼を述べあとはただ無表情で立っているだけだった。
やがてエザリアに解放許可を貰ったものの、食べたいものも喋りたい相手もいないこの場でやる事がないのも確かで。
適当に小皿に取り分けてもらったサンドイッチに口をつけているところで後ろから肩を叩かれ、イザークは振り返った。
「はじめまして」
目に入ったのは色の濃い肌に、金の癖毛。そして。
今日は紫によく遭遇する日のようだ。
「ハピバースデー、イザークちゃん」
呼ばれた名前に、コイツには礼を言う義務も義理もないとまず思った。
「なにか用か?」
「なにかって…『おたんじょうび』なんだから、祝いのコトバ言ってトーゼンだろ?」
「そんなことおやに言われなければだれも言わない」
「ふーん?そー」
なぜかどこか楽しげにそう呟くが、その目にどれかといえば馬鹿にしたような色があるのをイザークは見取った。
「おまえも子どもだろ」
「まぁたしかにガキだけど」
あっさりと頷いて、「そのサンドイッチ頂戴」とイザークの持っていた皿から勝手に一切れさらって口に運ぶ。
その行儀の悪さに顔を顰めながら、イザークはそれを咎められずに相手を睨む。
「あ、オレはディアッカ。ディアッカ・エルスマンな。よろしく」
「エルスマン?」
「なまえくらいは知ってる?おやどうしが仲いいし」
「……あぁ。としは?」
真っ直ぐディアッカを見て、というか睨みつけてのイザークの質問に、少し驚いたようにディアッカは食べ途中のサンドイッチから口を離した。
その表情はすぐに、薄い笑みに隠れたが。
「おないどし…ってもオレのたんじょうびはまだだけど」
「そうか」
「年上だとおもった?」
「べつに」
誕生日がまだだと言うことは、さっきまで一緒にいた"ヤツ"と同い年である。とてもそうは見えない、というか自分よりもはるかに口達者なディアッカに、イザークは少しむかついて、それ以上の関わりを避けるように傍から離れようとした。
しかしディアッカはイザークの後ろを付いてくる。
「………なんだ?」
「ヒマだから相手してくれないかな、とおもって」
「なぜ?」
「いちおうホストでしょ、イザークちゃん」
「じぶんのためのパーティーでこれいじょうホストなんかするか」
「なにカリカリしてんの?イザークちゃん」
「"ちゃん"づけをヤメロ!!きもちわるいっ」
「あぁ、悪い。…イザーク?」
「なれなれしく呼ぶな!」
「じゃあなんて呼べばいいんだよ」
「呼ぶな」
「おうぼうだなー」
「うるさい!」
癇癪玉を爆発させて、イザークはディアッカを精一杯睨みつけた。
だがディアッカはまるでこちらの意思が伝わっていないかのように笑っている。
「ほかにもいっぱいあいてするヤツはいるだろ」
「ほかって?」
「そこらの"ほか"!」
周囲の、同じように親の手から逃れた子供達をイザークは示すが、ディアッカは視線を一巡させて『興味ない』と一蹴した。
意思疎通の叶わない相手にイライラと視線を上に向けると、ふと、庭から見える2階の部屋のひとつの窓に、ちいさな掌を見つけた。
そこは自室のひとつ隣り。つまり。
"ヤツ"の部屋。
ぴょこぴょこと揺れる手だけが見えて、そしてイザークはなんとなくその部屋の中の状態を察した。
「バカが…」
「?…イザーク?」
突然屋敷の入り口へと駆け出したイザークの背にディアッカの声がかかったが、それを気にかける間もなく、中で待機していた使用人に何事かとに訊かれてもイザークは止まらなかった。
そして、目当てのドアに「Open !」と告げてもどかしくドアを開く。
そこには予想通り、紫に赤を混ぜた目をした子供がいた。
「……っぃ、いざ…っく…ぅ……」
「なにをしてる」
「……か、っく、て…こわ……でっ、も……そと……」
しゃくり上げて、嗚咽を噛んで話そうとすればするほど喋れなくなって、キラは窓の下で突っ立ったまま懸命に涙を拭っている。
そうして擦って、目元まで痛々しいぐらいに赤くなっていく。
「うわ…スゴイ泣き方」
「おまえ…」
イザークの後ろで料理を乗せた小皿を持ったまま、知らぬ間に追いついたディアッカがキラを見て感心したような声を上げる。
ディアッカは小皿をイザークに渡すと、横を通り抜けてキラの傍へと駆け寄る。それにつられて、イザークも部屋に入った。
「ひ…ぃ…っく…」
「はいはい。しゃべんなくていいからゆっくり息すってー」
「……んっく…ム、っリ……」
「じゃ、息とめて」
「!…っぐ……」
ハンカチを持った手で、ディアッカはキラの口を塞ぐ。
涙やらなんやらでぐしゃぐしゃになったキラの顔が、驚愕に表情を固めて、そして苦しげに歪む。
「なにを…」
「息できなきゃ泣けないし。そろそろいいか…」
べとべとになったハンカチでついで、とばかりに顔を拭って、ディアッカは手を離す。
咳を幾度か繰り返して、キラはやっと大人しくなった。
「つかれてハラへったんじゃない?食べる?」
「……ぅ、ん」
しゃくりあげながらもどうにか頷いて、キラはイザークの小皿に載ったサンドイッチにゆっくりと手を伸ばした。
「つまりドアを開けようとしたけど開かなくて、だれかいないかとおもったら外からこえがきこえて、だからまどからでようとしたけどまどに手がとどかなかったから」
あんなにボロボロ泣いてたわけね、と声に出さずに完結させて、ディアッカはイザークを見た。
「だってさ」
「…バカか」
「さすがにいきなりとじこめられればショックだとおもうけど」
「はんにちくらい大人しくしているとおもった」
イザークにしてみれば、半日どころか1日中だって放っておかれても黙って大人しくしていなければいけないというのが常識で。
それから見ればキラの行動はイザークの常識の範囲外の行動だ。
「こいつはまだわかんないんだろ」
「だからバカだと言ってる」
「これからおしえてあげれば?イザークが」
「なぜ」
「だってイザークの弟だろ?これ」
当たり前のようにディアッカが訊ねるが、イザークは『違う』と答えた。
「は?じゃあだれこれ」
「キラ・ヤマト」
「……名前じゃなくて…」
じゃあ何でこんなところに閉じ込めてあるんだ、とディアッカは頭が痛くなってきた。
「うちであずかったと、ははうえには言われた。『おとうととして』とは言われたが、みとめたおぼえはない」
「あぁ…なるほど」
なにか複雑らしいことだけは聞き取って、ディアッカは兎のようにサンドイッチをもそもそと食べるキラを見下ろし、なんとなくその頭を撫でた。
「2・3才?」
「4才」
「うっそ…」
自分が早生まれだからと言って、事実上同い年とは思わなかったディアッカはまじまじとキラを見つめる。
イザークが『バカだ』と称したくなるのも分かる気がする。
「……がんばってきょういくしてやれ」
「しるか」
「あ、まだ食べるか?」
「うん」
「オイ」
呻いたイザークは、最悪の誕生日になったと内心憤りながら、目の前の2人をまるで未知なる珍獣でも見るような目でしばらく観察することになった。
ここから、腐れ縁が始まる。