まずい。

 まずい。

 まずい。


 頭の中で言い訳ばかりが頭をよぎる。


 だがそんなことより何よりまず。
 会って話さなきゃ埒があかない。

「……っくそ……!」

 どうしてこういう日に限って。あれは、これは、自分は。

 まだ。言い訳ばかり。


「どうして寝坊するんだよーっ!!」


 情けない八つ当たりはペダルに向けて。
 香介は邪魔をする強い向かい風を受けながら緩く長い坂を全力で駆け上がっていった。






「なあ。自転車でどっか行かねぇ?」
『は……?』

 電話越しで呆れたような声が返る。
 それを予想していた香介はもう一度繰り返した。

「だから、自転車旅行しないか、って」
『……なんで?』
「何でって…行きたいからとしか言い様が無いだろ」
『何でお前の旅行に俺が付き合わなきゃいけないんだ?』
 思った通り、インドア派の彼は辛辣に言う。
「一人で行っても意味無いだろ」
『意味が無いならやめればいいだろ』
「もっと意味ねぇじゃねーか」
『お前自分がなに言ってるかわかってるか?』
「おう。鳴海歩を自転車旅行に誘ってる」
『……………』
「嫌か?」

 駄目押し。

『………別に』
 長い間を置いて返ってきた答えに香介は密かにガッツポーズ。
「よし。じゃあ週末にお前ん家の前で」
『どこ行く気だ?』
「会ってから決める」
『計画性が無いな』
「そんなもんだろ」

 弾んでしまいそうな声を押し殺してわざとそっけなく香介は言って、二言三言の後電話を切ったのだった。






 そこまでは良かった。
 いや、今日朝起きるまでは良かった。

 問題は自分の壊れた目覚し時計だろう。

「よりによって今日この日に電池切れするか!?」

 どうしたってもう待ち合わせもは間に合わない。
「怒ってる…よなぁ…」
 坂は登り終わったものの、向かい風は止まない。

 まるで神様に妨害されているような。

 笑えない不吉さを感じながら、香介は長く風除けの無い道を見据えて息を吐いた。
 回り道になろうとも風除けのある道を行くべきか。
 細く大通りから裏道に続く小道を見やって、香介はハンドルを傾けた。







 あと少し。

 歩の待つ(はずの)マンションを確認してペダルを踏む足に力をこめる。
 こめたところで、香介は遠目に人影を見つけた。

「歩?」

 道端に留めた自転車にもたれ掛かっていた歩の方も香介を見つけたのか、ゆっくりと腰をあげた。
 スタンドを蹴り上げ、自転車にまたがって。

 ――――― 走り出す。


「って、ちょっと待て!!」


 聞こえないだろう叫びをあげて、香介は緩みかけた足でペダルを踏み外した。
 慌てて空回りするペダルを捉えて、再びこぎ出す。
 だが大して気乗りもなく走っている歩に、香介は思ったより早く追いついた。
 幾分穏やかになった風が火照った頬に涼しい。
「歩ー?」
 歩道のでこぼこに揺れる声で呼びかける。
 追いつけたことに安堵して。
 だが香介は甘かった。

 かけた声はキレイに無視された。

「遅くなって悪かった」
「………」
「風が強くてよー」
「………」
「おい、歩?」
「………」

 黙々と進む歩から返事は無い。

 やっぱ怒ってる?

 嫌な予感にひやりとした汗が背を伝う。
 もう一度声をかけようとした時、不意に歩の走るスピードが僅かに上がった。

「待っ……」


 待て、なんて言えた義理か?


 言った途端に返ってきそうな皮肉が頭をよぎって、香介は口を閉ざした。
 だからといって追いついて、追い越して、それでどうする?
 一生懸命言い訳をするなんてダサいことをするのか。


「……ま、いーか」


 しばらくこのままでも。


 そんな珍しい楽観さを見せて、香介は先を行く背を見たまま黙ってペダルをこいだ。
 奇妙な追いかけっこを楽しむように。






「お疲れ様」
「そりゃこっちのセリフだ」
 休み無しの追いかけっこでより疲れているのはやはり持久力の点で劣る歩の方。
 唐突にブレーキをかけた歩はその疲れを見せようとはせずに、香介を見て笑った。
 それを見て、香介は安堵の息を吐く。
「機嫌直ってくれたか?」
「……は?…あぁ、別に」
 怒っていたわけじゃない、と続く言葉は飲み込んで、歩は視線を香介から外す。

 そこは、理緒と相対した河川敷。

「なぁ、何でこんなとこに来たんだ?」
「浅月……お前まだ気付かないのか?」
「何がだ?」
 意味がわからず首を傾げる香介にあからさまな溜息をついて、歩は自分の脇に留まっている自転車のサドルを叩いた。

 そのフォルムをじっと見て。


――― …っ俺の自転車ぁ!!!」


「流星号。お前すっかり忘れてただろ」
「ったりめーだ!」
「だよな。新しいの手に入れれば普通に忘れるか」
「ずっとお前が持ってたのか?」
「お前が言い出すまで待ってようかと思ったけど、気付かないだろ」
「〜〜〜〜〜」
「で、今日が来た、と」
 ふっと笑った歩の続く言葉が分かる気がして、香介は耳を塞ぎたかった。
 だがそれは叶わず、歩は無情に続けた。
「間抜けだな」
「分かってる!」
「これで遅刻はチャラにしてやるよ」
「そりゃありがとうよ」
 やや投げやりに言って、香介は溜息を吐いた。
「無駄に疲れたな…」
「ご愁傷様」
「誰のせいだ」
「自業自得だな」
 打てば響くように返ってくる応えに撃沈。


「あーあ。強かになったな」
「お陰様で」

 笑う歩。
 それだけでもうどうでもいいと思える自分の頭はなんて幸せな。

「しゃーねー。お前にやるよ、流星号」
「え?」
「名付け親だろ?ちゃんと使えよ」
「あ、あぁ」
「というわけで、海でも行くか?」
「なにが『というわけ』だ」

「嫌か?」

 にっと笑って問い掛けると。
 少しぶっきらぼうな答えが返ることは知っているから。

 厄日返上。




 たまには風の向くままに。





「じゃ、行こーぜ」
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