空を 揺蕩うように 月が 照らす。


「………あゆむ………」


 背後から、どこか呆然と呼ばれる。

 道端で立ち止まり、止まってから気付く。
 反射的に反応してしまうそれは自分の名前だった。

 明かりは乏しく、ただ月明かりだけが頼りの薄暗い路地で、歩は自分を呼び止めた相手をしばらく見つめていた。
「…なんだ。浅月か」
「なんだって…お前なぁ」
 振り向いて、呟いて、歩は歩き出す。
 それを追って、香介が横に並んだ。


 皮肉屋の彼に、親しげに名を呼ばれるようになったのはいつか。
 そう遠い日のことではないのに、大昔のような気がする。


「どこ行くんだ?」
「どこって、家」
「どこの」
 問われて、再び歩は足を止めた。

 親と共にいた実家か、兄と暮らし、義姉と過ごしたマンションか、それとも。


「どこだろうな」


 苦笑した歩に、香介は顔を顰めた。
「何考えてんだ?」
 詰問するような口調。
 対して歩は穏やかに笑ったまま、自分の右手を左胸に当てた。

「死ぬと、生きていくことはせずにすむんだな、と思って」
「ってめ…!」
「安心しろ。自殺なんてしてやらないさ」
 咄嗟に歩の襟元を掴んで捻り上げた香介の腕をゆっくりと外した歩が首を振る。

「してやらない」

 確かめるように繰り返した言葉。
 ばつの悪そうな表情で、香介は歩から視線を外した。

「あいつは…なんて言うと思う?」
「さぁな」
「こういう時は『あいつはそんなこと望んでない』って止めるところだろ?」
「んなこと言えるか」
 苦虫を噛み潰したような顔の香介に、歩は笑った。
「あいつは望んだかもしれないから、か?」
「…ああ…」
 溜息のような同意。
 そして唇を噛み締めて、香介は俯いた。

 その様子を見る方が、今その現実を口にするより苦しい気がした。


 信じられない真実が、現実を手に入れたようで。


「改めて思うよ。あいつといて、俺がどれだけ幸せだったのかって」
 今度は、歩が眼を伏せる番だった。
 面と向かって言うのは気恥ずかしすぎるこの言葉は、隣にいる仲間ではなく、空へ。
「ちゃんと、こんな風に想える気持ちを知ることが出来た…それは感謝してる」
「…歩…」
「だから俺はもう、何もいらない」
 誓うように目を閉じて歩は言った。


 行き場をなくしたココロが冷えていく。
 通り過ぎてしまった幸福が今を無意味にする。
 それを求めることはしても、再び幸せに満たされることはないのだと。


 あいつに似た、月が微笑う。



「お前がアイツを好きだった、てのは知ってる」
「…ん」
「アイツも、お前のこと好きだったって分かってる」
「ああ」
「…だから…悲しむな、なんて言わないけどなっ…!」
 喉の奥で、ぐっと息を飲み込んで、香介が歩を睨みつける。
 フレームで仕切られたレンズの奥の眼が、言葉以上に訴えかける。

 言いたいことは痛いほど分かるのに、歩はただ笑うことしか出来なかった。


(まるでこれじゃあ兄貴みたいだな)

 思って、その考えは即座に否定する。
 そうではないのだと、知らしめてくれたのも、あいつだったから。



「お前が ――― っ…死ぬ必要なんてないんだからな」
「分かってる、浅月」


 欲しがる術をなくして、生き延びるのは難しい。
 だけど、以前のように腐ってしまいはしない。


「終わらせるまで、死なないさ」
「違う。“終わらせても”だ」
 痛ましい、だけど真っ直ぐな視線が歩を射抜く。
 それに息苦しさを感じながら、歩は頷いた。
「いつかそれで…皆幸せに?」
「…お前がそれを言うのかよ。偽善者みたいだぜ?」
 香介らしい言葉を聞きながら、また歩き出す。

「そう言って、本当にそうなればいい」

 それこそ偽善者のようなセリフを零して。


 当たり前に夜が明ける。それと同じように光が当たればいい。
 そうではないと知っているから今は泣かない。


 今は。
「お前の上だって歩いていってみせるさ」




 笑って。
 月明かりの下、ただひっそりと。

 失ってしまった自分を悼む。

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GARNET CROW "Holy ground" BGM。