それがあまりにも
甘くて?
幸せで?
朝から雨が降っていた。
一昨々日に入梅宣言された空だ。それはしかたがない。
しやしやと、静かに、降るというよりは霧のように視界を煙らせる細い雨だとか、その先に抜けるような青色を隠しているとは思えない灰色の雲だとか。
そんなものを見るたびに、いちいち気にするような細い神経は生憎と持ち合わせてはいなかったのだけれど。
時に憂鬱になってしまうのは、それで、しかたのないことだった。
壁に寄りかかってぼんやりとしていた歩は、ぺたぺたと音を立てて近づいてくる気配に苦笑した。
その呑気なスリッパの音に、ではなくその存在に。
気付くとその存在が家にいることを忘れてしまう、自分に。
そんな歩の思案など知らず、その音はふいに止まった。
目を閉じていて正確には測れずとも、近いことだけは音と気配で分かる。
だがそれが思った以上に近かったことを、次の瞬間知らされた。
こつ、と頭蓋骨が音を立てる。
額に受けた衝撃よりも頭に響いたその音に驚いて、歩は目を開けた。
「…どうした?」
「どうかしとるの、歩の方やろ」
目の前にあるのは2つの目。というか瞼が閉じているせいで見えない、目があるべき場所。鼻の先は額と同じようにぶつかりそうで、言葉を一言零すだけで、唇に吐息がかかる。
そんな、位置と距離で。
落ちた瞼は開く気配がなくて、つられて歩もまた瞼を落とす。
それをまるで待っていたように、相手の両手が柔らかく耳を覆った。
防音というよりは首を支えるために。なのにそれは雑音を遠ざけて、相手の声だけを耳へと届ける道しるべのようだった。
「ちょい、聞き?」
「………ん」
確かめるような囁き声が、まるで内緒話でもするようで。
場違いに、歩はふと笑いそうになった。
そんな、距離だっただろうか。
お互いに。
「…ちゃんと聞き」
「聞いてる」
怒ったわけではない。少し拗ねたように、それでいて笑う気配を含んで叱るような声音。
表面は至って生真面目に応じれば、笑う気配が濃くなった。
「ええけど。な、こうなってから最近、歩に"休息"をくれる人、いなかったやろ?」
「それはまぁ…」
周りにいる彼らこそ"休息"なんてないような生き方してきたんだから、それは当たり前だった。
「せやから少しの間、俺とのんびり"休息"しよ?人間休むのも大事や」
「…のんびりと」
「ちょっとくらい、ええやろ?」
許可を伺うのではなく、どこか苦笑を孕んだ問い。
そこに含まれる意味合いは違えることなく読み取れた。
彼が、悪魔じゃなくて、自分が、神様なんて呼ばれずにいれば。
出会うことがなかった以前に、そんな自分が存在しない。
だからそんな履行不可能な仮定をしたところで意味がいないのは分かりきっているけれど。
それがあまりにも苦しかったから。
少しだけ望んでしまった。
ありえない明日がくればいいなんて。
「今だけ」
言い訳のように呟いた相手の言葉に、歩は目を伏せたまま頷いた。
まだ火澄編が始まったばかりの頃の話。