「ヒトの三大欲求」
「食欲・睡眠欲・性欲やな」
「一番重要なのは」
「食欲」
「………はぁ」
「せやからすまんて〜」
 思わず溜息をついた歩に、切なげな謝罪の言葉。
「まぁ…俺も悪いとは思うけど」
「や、俺の責任や」
 稀に見る失態だったのだろう。珍しく少し落ち込んだ様子で火澄は手の中のモノを見下ろし、そしてやはり歩と同じように溜息をついた。
「へこむなぁ…」
 それはステンレスの深鍋の中に焦げ付いてしまった元・ポトフ、現・炭の固まり。

 何を隠そう本日の2人の夕食メインディッシュ予定の一品、だったのだ。

 思いの外早々と下拵えが済んでしまった歩は、鍋を火のついていないコンロの上に置き、クッションを枕代わりにして眠っているところに帰ってきた火澄が、転寝している歩に気を利かせて夕食の準備を進めたのだが。少し目を離す間ができた時に歩の眠っている傍で雑誌を読んでいたら火澄もいつの間にか眠ってしまったのだ。眠っている人間の傍にいると相乗効果で眠くなる、を実証した後、焦げた匂いにどちらともなく起きれば、この惨状である。
「今から作り直すのも面倒だな」
「んー…材料も足りんし?」
 生憎近場のスーパーももう閉まってしまっただろう。
 互いに互いの顔を窺って、出した結果は。


「駅前のファミレス?」
「コンビニ弁当よりはええか」


 まずはエネルギー補給が優先。鍋は置いておいても死にはしないから。
「せやけど…あれ美味そうやったのに…」
 まだなお未練に溜息をつく火澄に「また今度作ればいい」と、慰めなのか安請け合いなのか歩自身も分からない言葉をかけながら玄関を出る。
 日の落ちきった外は少し気温が低くて、微風が頬を撫でた。



「蟹と青海苔の雑炊」
「プラス、ノルウェーサーモンのカルパッチョとオニオングラタンスープにビーフシチューオムライス。あ、デザートはティラミスサンデーな」
「かしこまりました。ご注文繰り返させていただきます」
 機械的にオーダーを繰り返して去っていったウエイターを見送って、歩は息を吐いた。
「そんなに食べるのか?」
「何ゆうとるん?歩も食べるんや。あ、もちろん俺の奢りな」
「…何でそういうことになるんだ?」
「俺が失敗したから。雑炊一皿で夕飯終わりなんて育ち盛りの男の子の胃が泣く!」
「こういうところだとあまり食欲が無いんだ」
「会食恐怖症でもないやろ?進んで食べれば自然と入る」
 少々強引な言葉に、仕方なく諦めて歩は水の入ったグラスに口をつける。
 嵌め殺しの窓の外を見ると、暗くなった外は信号で止められた車のブレーキライトが鮮やかに散りばめられている。
「すっかり真っ暗だな」
「せやな」
 外を見て頷いた火澄に歩が窓から視線を移すと、目に入ったのは楽しそうな笑顔。
「夜が好きなのか?」
 思わず訊ねると、火澄は少し驚いたように目を見張り、次いで首を傾げた。
「別に好き、ってわけでも…あ」
 ゆっくりと流れ出した車のライトを見て言葉を続ける前に、何かに気付いて火澄は言葉を切った。
「ノルウェーサーモンのカルパッチョ、お待たせしました」
 テーブルに置かれたそれに、火澄はにこにこ笑って自分と歩の分のフォークを取り出す。
 差し出されたフォークを受け取って、歩は先を促すように火澄を見る。
「食べへんの?」
「いや…」
「なんや、あーちゃん食べさせて欲しいん?でもやっぱり『あーん』ってやるのはパフェがええやろ?」
「同意を求めるな」
 うんざりと視線を外した歩に、火澄は笑いを堪えて口に入れたものを租借して、水の入ったグラスに手を伸ばした。
 氷が浮く透明なグラスを明りに透かして、小さく振る。
 持ち上げたそれを口元に持っていく気配もなく、火澄はグラスを揺らしてクリスタスのように光を乱反射させている。
「…意外とキレイだな」
 ただのお冷だけど。
 渡されたフォークにサラダ菜とドレッシングを絡めて、歩は特に考えもなくそう呟いた。
 その一口でフォークを皿に置いた歩に苦笑して、火澄はグラスをさらに持ち上げ、柔らかな橙の光を灯す明かりに透かし見た。

「せやな…光り物は好きかもしれん」

 カラン、と澄んだ音を立てるグラス越しに、小さな金色の点がぼやけて見えた。




What else could I do?

いったい何が出来る?






「ふぁー…食べたら眠いわ」
「原始的だな」
 月の光よりも鮮やかにライトアップされた車道の流れを横目に、火澄が伸びをする。
 数歩先を歩く火澄のその猫を思わせる仕種に、歩が微かに笑う。
「欲求には忠実なん」
 ふ、と笑った火澄の顔を見ているわけではないだろうに、歩は「そうか?」と訊ねる。
「そうでもないんじゃないか?」
 返ってきたその応えに火澄は首だけで後ろを振り返る。生憎と歩の視線は目の前の背中ではなく斜め上の歩道橋に向かっていた。
 その視線が戻ってくる前に火澄は首を戻して、歩道橋の階段に足をかけた。
「そっちじゃないだろ」
「食後の運動にちょっと遠回りもええよ?」
 火澄は歩の同意を待たずに段差の低い階段を1段抜かしで軽く上っていく。溜息を吐いて歩もそれに従った。
「多かれ少なかれ、人間誰しも全部の欲求に忠実なわけやないやろ」
「まぁな」
 いち早く階段を上り終えた火澄が上から歩を見下ろす。
 火澄とは違い、1段ずつゆっくりと上ってくる歩に「早く来ー」と残して、火澄は歩道橋を進んでいく。
「欲求…歩の欲求は?」
「平穏な人生」
「あはは。無理やなー」
 火澄はようやく上まで上ってきた歩を振り返った。
「俺も前はちょっとだけそう思ったんやけど」
「前は?」
「そ。前は。今は、どっちでも」
 その"どっち"の2択が容易に想像できて、歩は顔を顰めた。
「歩はイヤやろ?」
「当たり前だ」
「残念やなぁ…」
「俺は、お前なんかに殺されてたまるか、って思ってもらいたい」
「それは無理な相談や」
「なぜ?」
 問いに、火澄は歩道橋のど真ん中で立ち止まった。
「分からん?」
 歩が首肯すると、流れていくライトを見下ろして火澄は手すりから身を乗り出した。その足は少しだけ宙に浮いている。
「このままちょっと手に力込めて、向こっ側に跳ぶだけ」
 そう言いながら腕の力を抜いて、火澄は足を地面に戻した。
 そして今度は布団が干されるような体勢で、手すりに体重をかける。
 歩が少しその背を押すだけで真っ逆さまに落ちていける、体勢で。
「意外とあっけなく落ちれる」
 手すりの先に腕を伸ばして、地面を指す。
「たった一歩や」
「でもお前はやらなかったんだろ?」
 どうして、と言外に問うと少し困ったように笑う。
「キリエちゃんにいくら言われてもなー…」
「それが正しい人の欲求だ」
「まさかこうなるとは思っとらんかったし」
「こう?」
「こんなに…歩にめろめろになるとは、な」
「めろめろって…」
「俺をこんなにした責任取ってや〜♪」
「……………」
 返す言葉が出てこない程呆れた歩は火澄を見たまま溜息を吐くしかできなかった。
 それに今度は面白そうに笑って、火澄は空へ視線を移す。
 星空のキレイな空。明日はきっと洗濯日和だ。
「ホンマ…歩のせいや…」
 責める言葉のはずなのに、それは愛おしげに呟かれる。
 それは、痛みのようにしか感じられなくて。
「…卑怯だろ」
「んー?だからどっちになってもええってことや。歩に、期待しとるよ?」
 そう言って振り向いて笑う、その顔はとても無邪気なものだった。
「きっとどんな答えであっても、それを出したのが歩なら、ええ」
「あんまり買いかぶるなよ」
 声の端々から困惑が滲んでしまった、そんな戸惑いを隠せずに歩が苦笑すれば、火澄は気にした様子もなく届く無数の空の光を目に受け止めている。

 この気持ちは多分"恋"というのが一番近いのかもしれない。
 でもその一言で片付けるにはお互いの立ち位置が微妙で。
 そしてそんな青い春のような甘さでも切なさでもなく、複雑にすぎた。

「悪いことと正しいことだけで世の中割り切れればいいのに」
 悪魔は優しくて、神様は無慈悲だけど。
 神様は苦しくて、悪魔はだから笑っていた。
「でも俺は歩のことが好きやから」
「なにが"でも"」
「利益も何もないことが悪いことか正しいことかなんて分からんやろ?」
「…俺は、嫌いじゃないけど」
「うん」
 例えばこの関係にあえて名前をつけるならどんなものがいいだろう。別に、無理に名付けるのならそれが友達でも恋人でも愛人でも家族でも赤の他人でも構わなかった。
 そこに愛があるのかと問われたところで答えられないような関係。
 『好き』という言葉は実に幅広く、『お気に入り』から『愛してる』まで包括しているものだからややこしくて。ただ傍にいることが居心地いいから、なんて埋もれ甲斐のあるクッションにも等しい扱いだ、お互い。
 触れて、寄りかかって、抱きしめて、それで癒されるのなら相手が無機物か生き物かの差なんて気にしなければいい。
 それが生活に必要なもののひとつになってしまった割にそれがなくても逼迫した感情なんて追いかけては来ない、そんな関係。


 それでも、欲しがりさえしなければ、生きることさえなかった。


「俺は歩が、好き、やから」
 言葉を確かめるように、噛み締めるように、口にする火澄に一度目を閉じて歩は頷く。
「分かった」
 相手のその言葉が『Yes』や『No』を求めるものではなく想いの指差し点検のようだったから後押しに頷くだけ。
 それで、その話はおしまいだった。
「なー、歩?」
「ん?」
「最近、夢見るん」
「ふーん?」
「いっつもおんなじ夢。いつ終わるんやろな」
「…自分の無意識下の出来事なら、いつかは終わるだろ」
「せやなー…」
「なんなら添い寝でもするか?」
「本気で?じゃあ早速今夜、」
「冗談」
「えー?有言は実行するもんやろ」
「うるさい。さっさと帰って焦げた鍋洗うのが先だ」
「そういえばそんなものがあったなぁ」
 溜息と笑い声の混じる帰り道。
 悪夢の終わりはまだ遠くて、だから笑って斜め前をまた火澄は歩き出した。













BACK