清潔感漂う廊下を進み、ノックもせずにドアに手をかける。
 案外重い扉を荷物のせいで上手く力の入らない片手でどうにかスライドさせる。
 機材、もしくは患者がスムーズに運べるようにと大きく作られたドア。その設計が、この部屋に入れられた人間の命を引き伸ばす為の必死の足掻きの一端を見せるようで。明るい雰囲気が逆に神経を逆撫でるように感じられた。

 思いの外疲れているのかもしれない。

 そんな事を考えながら、反動で閉まるがままになっているドアを放置して彼は中へと足を進める。
 そして、正面に鎮座する艶やかな漆黒のピアノに微かに笑みを浮かべた。















A word to the wise.















「久しぶりだな」
 テーブルに譜面と筆記具を散乱させたまま背凭れに寄りかかって目を閉じていた歩は、かけられた声に瞼を開けた。
 首を僅かに動かすと、確かに久しく会っていなかった人間が立ってはいた。
「………なぁ」
「なんだ?」
「俺の目の錯覚でなければ、あんたの片腕にエライモノが載ってるんだが」
 思わず目を擦る。機能低下してきている自分の目は時々世界を暗転させてしまう事がある。しかしさすがにそんなリアルな幻覚を見せるまでには至っていないはずだ。
「見舞い品は載っているが?」
 平然とした様子でそう答えたアイズが、歩曰く『エライモノ』をサイドテーブルに載せた。置いた瞬間ガサガサと包装が擦れて音を立てたから、それはまごうことなく現実の品なのだろう。
「何が面白くて重病人の見舞いに薔薇の花束なんて持ってくるんだ?」

 しかも真紅。
 嫌がらせか。

 しっとりとした質感の花弁が今にも綻びそうで、素直に賞賛に値する類の、つまりはそうほいほい花束にするような種類の物ではない事は見て取れる。
 だというのに、包まれている本数は歩が生き永らえる事の出来る歳の数の優に2倍以上はありそうだった。


 嫌がらせ決定だ。


 花瓶の無いこの部屋で萎れさせるのは惜しい存在である。枯れてしまう前に誰か引き取ってくれる人間が現れるといいのだが、と黙考していたら、ベッドサイドに立っていたアイズが散らかしたままの譜面を1枚拾い上げた。
「まずは伝言だ」
「伝言?」
「ミズシロ火澄から」
 薔薇の花束からアイズへと視線を移していた歩は、黙って先を促した。
「『行けよ、お前の願うとこまで』、だそうだ」
「…そうか」
 頷いて、歩は少しだけ口角を上げた。
 その表情を見咎めたアイズに、歩は苦笑してみせた。
「せっかく今まで預かっててもらった言葉だから、有り難く受け取るさ」
「あぁ」
 拾い上げた譜面を戻し、アイズの視線は窓の外へと移った。
「空港で『荒れ野のブラウニー』に会った」
「…竹内か」
 話に聞いていたあだ名に思い当たる。そんなもの教えなくていいと本人は言いそうだが、周りが面白がって言ってくるせいでこの手の話はよく聞く。
「お前の夢を一番多く共に見ているのはリオかもしれない」
 肯定の意味合いには聞こえなかったが、特別批判するような声でもなかったから、真意を測れずに歩は相手の顔を仰いだ。
 その視線の意味に多分気付きながら、アイズの視線は歩から外されたままだった。
「しかしあるいは、一番お前の意を汲んでいるのはアサヅキかもしれないな」
 話の意図が見えない。
「何が言いたいんだ?」
 仕方なく直接問うが、一向に気にする様子もないアイズはベッドの脇に据えられたピアノへとまた視線を流す。
「弾かないか?」
「…今、か?」
「もちろんだ」
 人の質問を無視しておきながらきっちり主張は返したアイズに苦笑して、歩はピアノに目を向けた。
「あんたの前では弾きたくないな」
「…俺の前では?」
「天下のアイズ・ラザフォードだぞ?」
 茶化すように言うと、少し意外そうにアイズが歩を見た。
「そんな事を気にするような人間じゃないだろう?」
「さあな」
「ここへ来る前に」
 はぐらかすような歩の声を遮るように言葉が被される。

「"キヨタカの最後の駒"にも会った」

 誰を指しているのかはすぐに分かった。
 少し意外な気もしたが、ありえない話でもない。
「それで?」
「それの話をされた」
 それ、と指されたグランドピアノ。しかし彼が指したのは多分、やってきた彼女に『どうしても』と聴かせた事の方だろう。
 面倒な事をと胸中で罵ってみるが、それが何になるわけでもなく。
 答えに窮す歩の目の前に、いつの間にか白い手が伸びてきた。
「ラザフォード?」
 ひやり、とした指先が頬に触れる。
 ベッドの端に座ったアイズが真っ直ぐに歩を見ていた。
「ラザ…」
「アユム」
「?」
 耳覚えのない呼び方。身じろぎすらしない相手の端整な顔を、ただ黙って怪訝そうな面持ちでしばし見つめていたら。


「Can I give a kiss to you ?」


 流暢なクイーンズイングリッシュが耳を素通りする。
 そして歩が意味を掴むより、それを身を持って理解させんと動いたアイズの方が早かった。
「…目を閉じるのが礼儀だと思うが?」
「………。その前にあんたの『礼儀』とやらを問いたいんだが」
 すぐ傍で、呟く唇。
 相手の肩を掴んで無理矢理遠ざけて、自分の口を手の甲で押さえる。
「あんたここに何しに来たんだ?」
「…分からないのならもう一度やっても構わないが」
「真顔で言うな。笑い死にしそうだ」
 嫌そうに顔を歪めた歩に、アイズは微かに笑って立ち上がった。
「そうだな。もういっそ、そう思わないでもない」
 アイズは完璧に整えられた花束の中から、真紅の花の一輪を抜き取って呟く。
「は?」
「今更だが腹が立ったからな」
「何の話だ?」
「だから、」
 一輪の薔薇。それがまたよく似合う彼は、薔薇よりキレイに笑って見せた。
「分からないのならもう一度繰り返すと言っている」
「それは断固として遠慮願いたいんだが」
「リオやアサヅキが羨ましいと言っているだけだ」
「羨ましい?あんたが?」
 どういう類のなぞなぞだ、と訝る歩の膝の上に手にした薔薇を置いた、アイズはもう笑ってはいなかった。
「愚か者だからな。言葉ひとつで済ますつもりはない」
「…『言わぬが花』、か?」
「今更だろう?」


 艶やかに咲くその花の意味など、と。


 徹頭徹尾嫌がらせだ。
 それこそ、笑い死にさせるつもりなんじゃないかと鉄面皮を仰ぐ。
 だがアイズはやはりそれに答えるつもりはないらしい。
「次に来る時には聴かせて貰えるといいんだが?」
「…生きていたらな」
 ピアノを視線で示した相手に、渋面のまま答える。
 それを気にする様子もなく、アイズはひとつ頷いた。
「ならそれまでは生きている事を祈ろう」
「…それはどうも」
 言って、置かれた花を拾う。
 そしてお互いに、もう2度と会うことなどないだろうに、と嘲いながらもどこか晴れやかに言葉なく別れを告げた。













『愛してる』なんて言わない代わりに『さよなら』なんて言葉もない。





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題意から微妙に外れてしまいましたがもうこれはこれって事で。(諦め)


060202