捨てきれないと知っている
あ、と。
ほんの小さな呟きを耳が拾う。
部屋にあった音は元々彼がキッチンで何か作業している際のもので全部だ。彼が手を止めれば必然的に静寂が降りる。そこに落とされた声だった。
続いてスリッパがフローリングを踏む音が近付いてくる。慌てた様子もないそれの音源を何気なく見やって、アイズは目を見開く。
「お前、」
「ん?ああ…紅茶のお代わりはいるか?」
言葉を失っているアイズに気付いた相手が暢気に茶を勧めてくる。その指先からぽたり、とひとつ雫が落ちた。既に見慣れた、鮮やかな緋色の雫だ。
「しまった」
床に落ちたそれに小さく呟いて、彼はやや慌てた様子でティッシュを箱ごと掴むとアイズに向かって投げた。
怪我をしているのは彼であり、何故自分に向かってこんな物を投げるのかと。問う前に彼は答えた。
「悪いが血痕拭き取ってくれ」
「…は、?」
「天下のアイズ・ラザフォードに床掃除させるのは本当に気が引けるんだが」
「心にもない事を…いや、」
違うだろうと勝手に答えてしまった自分に思わず制止の言葉をかける。
アイズが動揺を治めようと苦心している間に、その原因たる相手はリビングに置いてあった救急箱を取り出している。その様子を見ているうちにアイズもどうにか理性を取り戻した。
傷があるのは利き手ではないとはいえ、片手が塞がれたままの当人よりはと消毒液を奪い取る。
「傷は」
短く問うと、一瞬驚いた顔をした相手が血液の纏わりつく指を差し出す。一筋の切り口からは未だ血が吹き出している。
「…どうやったらこんなに深く切れるんだ」
「多分誤ってブレッドナイフの刃に指がかかったんじゃないか?」
「『多分』?」
「気付いたら血が出てた」
だから状況推理の範疇を出ない、と自分の行動だというのにまるで無責任に告げる相手が少し腹立たしく、アイズはやや雑な動作でその傷口に予告なく消毒液を吹きかけた。
「…っ、」
声にならなかった悲鳴を聞かなかった事にして、邪魔な血液を拭き取る。だが思った以上に傷口が深いのか出血が止まる気配は無い。アイズは眉を顰めた。
「本当にどれだけ深く切ったんだ…」
「まあ…そのうち止まるだろ」
気楽な様子で言いのけて、彼は救急箱の中から耐水性の絆創膏を取り出し、ふと気付いたようにアイズの顔を見た。
「…手、」
「?」
「放してもらえると助かるんだが」
片手で絆創膏の保護面を剥がすのは難しい。暗に示されたその状況は理解しているが。
「…それひとつで手当てを終えて、また作業に戻るつもりか?」
「ああ」
「せめてしばらく止血していろ」
簡単に頷いた相手に忠告すれば、きょとりとした目が幾度か瞬きを繰り返す。
「そんな大げさな怪我じゃないぞ?」
そう彼は言う。が、今アイズがガーゼで押さえている傷口はまだじわじわと流血している。多分、手を放せばまだこれは続くだろう。
命に別状があるわけではないだろうが。
手を放さないアイズに、彼は少し考える素振りを見せたが結局出てきたのは自分の傷の度合いを楽観する意味の言葉だった。
これくらい舐めとけば治る、と。
「………。」
無言で、指にくっつきかけていたガーゼを剥がし取ったアイズは彼の反応を待たずにその傷に口づけた。
血液と消毒液の混ざったそれは酷い味がしたが、呆気に取られた相手の顔を見れば溜飲も下がった。
「、ラザ…フォード?」
「お前の指は、ピアニストのものではないのか?」
無意識に低くなった声に、自分はどうやらその点に怒りを覚えていたらしいと自覚する。
そして同じようにそれに気付いたのか、言われた言葉を反芻するように相手が口をつぐむ。
何か反論があるのかとそれを窺っていると、不意に彼はその顔を歪めた。
そこに一瞬浮かんだのは、切ないくらいひわやかな笑みで。
「生憎と、今は主夫の指だからな」
視線を落とし手早く傷口を覆ってしまうと、彼は静かに立ち上がる。
ぱたりと救急箱の蓋が閉じる音でようやくアイズも我に返った。
一瞬とはいえ人の呼吸を塞き止めた相手は、まるで何事もなかったかのように空のカップを示して「お代わりは?」と尋ねてくる。
知らず詰めていた息を溜息にして吐き出して、アイズは仕方なくもう一杯を望む事にした。
↑
(息が、つまるほど)
かなわない、かなわない
ちゅく、と小さな音が響く。
スティックキャンディーを舐めるようなその音に続き鼻にかかるような声が一音。
そして。
「っ!」
べちり、とほぼ手加減無しの平手が清隆の顔面に叩きつけられた。
「痛いじゃないか」
「…ッ…こっちは痛いどころじゃない!」
肩を震わせて苦しげに呼吸を繰り返す弟は、ささやかな苦情を酷い勢いで棄却した。
「殺す気か?」
「明確な殺意を抱いた覚えはないが」
「なら鼻を摘んだまま口を塞ぐな」
普通の人間なら死ぬぞ、と呆れたような声音が告げる。
流石に教えられなくともそのくらいは理解しているぞ、と返せば胡乱なものでも見るように弟は僅かに目を眇めた。だがその呆れの態度がもう既に、今さっき殺されかけた人間の態度じゃないだろう、と清隆は笑う。
ただしそれは敢えて指摘しない。
「何か言いたげだな。その目は」
「…兄貴は死ななさそうだ、と思っただけだ」
「試してみるか?」
「やりたいなら止めないから実験は独りでやってくれ」
「口を塞ぐ相手がいないじゃないか」
「同じやり方じゃなくても口は塞げるぞ。兄貴の手はふたつある」
対して口と鼻はひとつずつだ。幼子でも分かる計算だろう、ただしこんな倫理に悖る計算問題を差し出す大人は非常に稀だろうが。
冷たい弟の態度を大仰に嘆いてみせて、清隆は首を振った。
「ちょっとした冗談じゃないか」
「どこからどこまでが」
「お前がなかなか起きないから少々不安になってな」
「………。」
「最初は本当に大人しく口付けただけだぞ?」
「…そもそもなんでそんな起こされ方されなきゃいけないんだ」
「このまま起きなければ色々やりたい放題だな、と」
「………。」
「冗談だ」
どこからどこまで、の問いはもうかけられなかった。徹頭徹尾、冗談というより虚偽と戯れだと賢い弟は結論付けたのだろう。
本当に彼は賢い。
追求が自分に不利益だという事を、きっと悟ったのだ。冗談の中に混ぜ込んだ本音を選り分けるような真似はせず。一般的に受け流せる行為ではない部分まで何事もなかったかのように振舞って。
「そしてまたこれもかなわないわけだ」
「…?」
「独り言だよ」
ひとつくらいかなったっていいじゃないか、と駄々を捏ねるような気持ちで自分がいつもここに来る事を知らないだろう弟は、何食わぬ顔でまたひとつ不誠実な望みを握り潰した。
↑
(とどかない)
せめて否定をくれたなら
きい、と蝶番が小さな音を立てる。
風に混じる様々な音にそれはかき消されて、日常の雑音のひとつとして過ぎる。それでも、理緒にはそのささやかな音が少し特別に響いた。
(…いた)
決して滑らかとはいえないコンクリートの床に直に身を横たえた一人の少年。胸元に半端に開かれた雑誌が載っている。
開いた時以上に気を遣って扉を閉めて、可能な限りの静かさで傍に寄る。しゃがみこんで雑誌を見れば、案の定主婦御用達の料理雑誌だった。
(お豆腐特集かぁ…)
食べたいな。
表紙に踊る鮮やかな文字を追った思考にふと挟まれる欲求。それはもちろん自分で作ってという事ではなく、彼が作ったものがという意味で。
この気持ちが単純に食欲だったら話が早かったのに。
胸の上で規則的に上下する豆腐特集の文字から視線を逸らせば、無防備な寝顔が目に入る。
(睫ながーい…)
彼の顔をじっくりと眺められるいい機会だ。感嘆の息を静かに零しながら、その一方で既視感が湧き上がる。その理由は、深く考えなくてもすぐに思い当たった。
(…やっぱりそっくりだ)
一度だけ、転寝しているあの人を見た時と酷似した顔。
滅多にない機会だからと不躾なくらいにじろじろと眺めて、不意に浮かんだイタズラ心で揶揄おうとして。
(…狸寝入りだったんだよね…)
無警戒のところを逆に衝かれた。思い出した記憶に、思わず小さな笑い声が零れてしまった。慌てて口元を手で押さえるけれど、目の前の人物は身じろぎひとつしなかった。
「………。」
葉擦れの音も人の声も遠い。時々吹く風がひやりと肌を撫でるだけでこの空間を侵すものは何も無い。理緒がここに来てからこの世界に変化なんてない、のに。
(起きて…る?)
もしかすると最初から。
不意にそんな風に思ったのはやはり彼の兄の記憶があるからだろう。あの時も自分は相手が寝たふりをしている事なんて気付かなかった。多分、理緒が何の行動も起こさなければあの人もそのまま動かなかった。
思い沈んで数秒。
理緒は今まで以上に慎重に、コンクリートに膝をついた。続いて両掌を。
硬くざらついた感触が皮膚を押す痛みをじわりじわりと味わいながら、重心を移動させ、息を止める。
薄い色のある場所じゃなくて、柔らかな肌を目指したのは一応の慎み。
(のつもり)
接触と言うにも軽すぎる一瞬の感触。触れるまでの動作とは間逆に素早い動きで理緒は身を起こした。
そこには、相変わらず規則正しく呼吸するだけの相手がいる。
「やっぱり、」
自嘲に似た苦笑を浮かべて、理緒はひとりごちた。
(知らないふりするんだ)
予想通りの結果を得て、理緒は膝をコンクリートから剥がした。跡がついたあたりを払おうとして尻餅をついて。だけどもう、この空間に気遣いはいらなかった。
あの人は触れる前に止めた。気遣いなしにきちんと拒絶した。そこが、酷似している彼ら兄弟の持つ差異だと理緒は思う。
「酷いなぁ…」
拒絶されない。ぼやきは聞いてもらえる。だけど返してはもらえない。
どちらも酷いけど、冗談で近付いたあの時と今は違う。違うのだ。
(こっちのが痛い)
あの人に向けたみたいに、これがもっと単純な好意だったら良かったのに。
仕様のない事を考えて、理緒はさっきは触れなかった部分に指先で触れた。
それでもやっぱり、彼は起きなかった。
↑
(けれどもこれは恋)
ぜんぶほんとう。
右手で拾い上げた彼の右手に唇で触れる。
あまりにもさりげない動作だったせいか、何をされたのかさえ分からないというような顔をした相手にカノンは視線を向けて笑みを浮かべた。
我に返ったように手の中の手が擦り抜かれる。
だけど引き戻しきる前に中途半端にその右手は止まった。触れられた部分をどう扱えばいいのか、対処に困るみたいに。
「…ごめんね?」
表情には出ていない、だけど空気に滲む困惑の雰囲気に思わず苦笑を混ぜた謝罪の言葉が口をつく。
「ついやっちゃったけど、慣れないよね」
「つい、…」
非難の言葉にさえ詰まる様子を見て、カノンは内心少し面白がっていた。確かに咄嗟にやる動作じゃないだろう。少なくとも彼の中では。
「そのキスの意味、知ってる?」
半端に宙に浮いたままの右手を示して尋ねる。
「…尊敬の意を示す?」
「そうそう。つまり、」
先と同じ動作で彼の右手をもう一度手に取った。今度は取るだけ。
意図を察したのか彼は特に抵抗しない。
「君に敬意を」
少しだけ手を持ち上げて、戯れのように芝居がかった調子で相手の瞳に笑いかける。
「…そりゃどうも」
ようやく動いた表情が、微かな苦笑いを形作る。
さっきより自然に手の中から抜け出した右手を、だけどやはりまだ持て余すように彼はひらひらと動かしている。
(気になるよね)
むしろ気にしてもらわないと困る。まず彼の気を引くことが目的なのだから。
「…どうかしたか?」
「ううん」
あまりに熱心に見ていたのか訝しげな声がかかる。それに首を振って応えた。
彼に敬意を覚えたのは本当。
触れたかったのも本当。
気を引きたいのも本当だ。
言わないだけで。
ずるいやり方だろうか。だけど賢しさの良し悪しは紙一重だろう。
(どれも本心だしね)
打算を混ぜ込んでも純粋な好意に見えていれば不純な行為も許される。
ようやってゆっくり少しずつ滲みこんでいけばいい。彼の内にこの想いが。
きっと彼にとって少し特別になったその右手に、気付かれないようカノンはくすりとひとつ笑い零した。
↑
(手段は言葉だけじゃない)
噛みつく火傷
「思ったより好かれとるんやな」
「…誰が?」
「歩が」
「誰に」
「ぶれちるの皆さんに」
問われるままに答えれば、まるであのおさげの少女に無理難題を吹っかけられた時のような顔をされた。
椅子に座っている火澄の元に湯気を上らせるカップを持ってきた彼は、その姿勢のままでしばらくなにかを考え込む。
「…そない難しい顔せんでも」
「させてるのは誰だ?」
「誰やろな?」
にこりと笑って小首を傾げると彼の手の中にあったマグカップの底の縁がこめかみを襲った。
「あっつ!」
「要望通りのホットミルクだ」
「危な!ってうわわ、零れる!」
ぶつけられた衝撃は僅かだったが、それ以上にたぷんと音を立てて揺れた中身の温度に火澄は慌てた。
焦って伸ばした手の中に、だけど思いの外丁寧にカップの持ち手が差し出される。こういう所で彼は律儀だ。というより自分のように雑に扱われる方が多分特別なのだ。
そう思えば、熱いカップを押し付けられた事など気にもならない。いや、怨めしくはあるが水に流そう。そもそもの原因となった自分の態度は棚に上げて、火澄は勝手に頷いた。
「それで、いきなりなんだ?」
「ん?ああ、っと」
自分の分のカップを持って離れかけた彼の手を反射的に掴む。
「…どうした?」
「うん…歩も割りと好きやろ?」
「誰を」
「知ってて訊くのは意地悪いんとちゃう?」
先程からの話の流れからすれば対象は分かりきっているはずだ。視線で告げると、彼は飄々とした顔でホットミルクを啜っている。手ごわい。
「…ちょっとくらい素直に答えてくれても罰は当たらんと思うけどなぁ」
「そう言われてもな」
「自覚ないん?」
「ああ」
「うそやー」
目の前にある歩の腹部にぐりぐりと頭をこすり付けると呆れたような声が静止の言葉をかける。
「駄々を捏ねるな。意味が分からないぞ」
「ふーん。ちょっと歩の本音を聞いてみたかっただけや」
そっぽを向いて飲み易い温度になったミルクに口を付ける。ほんのり香る甘い匂いに和まされるが、この気遣いも彼がしたものだと思うと今の火澄にはなんとなく癪に思えた。
気分のままにまだ冷め切らない底の方まで一気に含む。口の中を火傷しそうだ。
「…素直に言えば、」
そんな火澄の様子に苦笑した歩が呟く。優しい声音に真摯な気配を感じて火澄が顔を向けると。
「お前の事が嫌いじゃないのは、自覚してる」
ちょうど視線が合ったところで言われたそれ。
ごとん、と重い音がしたと思えばそれは自分がテーブルに落としたマグカップの音だった。
「
――― あかん」
ぽつりと零した一言に歩が反応する前に立ち上がる。突発的な行動に驚いている相手が動かないのをいい事に、火澄はその片側の腕を引っ張り寄せた。
「い、!」
続く突発的な火澄の行動に、歩が短い悲鳴をあげる。
「ごちそうさま!」
引き寄せた側の耳を押さえている歩にホットミルクの礼を告げ、あてがわれた自分の部屋へ足早に向かう。今の自分の顔を見られるのは拙い。
「前触れ無しにあんなの反則や」
口の中で呟く言葉。照れ隠しに耳を噛まれた歩が似たような感想を抱いている事を、火澄は知らない。
↑
(素直)