黄昏の時間だというのに、辺りは既に薄暗い。夕日は見慣れた雨雲に隠され、空色はひたすら灰色を濃くしていく。
生憎の空模様と言うべきか。鈍色の空を傘の端から覗いたアイズは、不意に覚えた感傷を振り払った。
ぼんやりとしている間に傾けた傘から落ちた雫が花を濡らしているのに気付いて、反射的に腕の中のそれを持ち直す。添えてしまえばどうせ濡れるのは分かっているのだが。
『無理しないように、ね』
耳を掠めるように、懐かしい声が蘇る。そのタイミングの良さに口元が少し緩んだ。
(もう三年)
経ってしまった。この道を進む時はいつもそうやって数えている気がする。あれからどれだけの時間が流れたのかを、確かめるように。
悪い癖、だろうか。固執しているつもりはないが、基準にしてしまっている気がする。彼が死んだあの日を、ホリデイのように。
事実、自分にとってはそうかもしれない。可能な限りに埋め尽くすスケジュールの中で、この日だけはどうにか隙間を作ろうとしている。半分無意識に。
「申し訳も出来ないな」
ばさりと一払いして傘を畳む。石に刻まれた名前を視線で一撫でして、その前に花束を静かに置いた。
花同様、髪に肩にと冷えた雫が落ちては滲み込む。
後先の事を考えなければ、正直その雫が有難かった。
「三年か」
結局、どんな顔をしてその日を迎えればよかったのか分からないままだ。
内心で自嘲したアイズは、ふと差した影に気付いて顔を上げた。
影の正体は傘だった。真新しいそれは折り畳み式のようでそう幅はない。差し掛けられたそれの持ち主を辿るように探し出して、言葉を失う。
「感傷に浸るつもりなら、傘を差さないか?」
言いながら、相手の視線はアイズの方を向いてはいない。どこか明後日を見たまま、彼は手にした紙コップの中身を啜っている。
「…亡霊か?」
「勝手に殺すな」
微苦笑で、彼は虚空に向けていた視線をアイズに定め直した。
「いや、しかし…」
「それにいくらなんでもイギリスくんだりまで化けて出るつもりはないぞ。死んでまで海外旅行したいって程アクティブな人間じゃない」
「…どうして此処にいる?」
「とりあえず傘差さないか?」
はぐらかすな、と言うのは流石に躊躇われた。小さな傘のスペースを貸されたままではアイズの方が理に詰まる。
畳んでいる間についた雨水を払って傘を差すと、相手は雫を避けて数歩分離れた。その足元でぴしゃぴしゃと跳ねる水滴に、改めて相手を認識する。
「それで、どうして此処にいる?ナルミアユム」
「アンタが此処に来ると思ったから」
「…そうじゃない」
望んだ答えが得られない事に、思わず溜息のような声が漏れる。
「動ける状態じゃなかったはずだ」
「…ああ。そうか」
肯定のようで、それは独りなにかを諒解するような響きだった。
「兄貴は言ってなかったんだな」
「何をだ?」
彼の兄、と言われて良い予想は浮かばない。訝るというよりは警戒の表情で鋭く聞き返したアイズに、彼は困ったように淡い笑みを見せた。
「そう恐い顔をするな。治療が随分進んでな。完治したとはとても言えないけど」
「…しかし」
「信じ難いかもしれないが本当だ。大体、そんなに体が酷い状態だったら飛行機なんて乗れないだろ」
「キヨタカなら個人の勝手で病人搬送くらいやってのける」
「否定できないな…」
苦味を増した相手の表情を雨粒越しに観察してみても、読み取れる情報は少ない。昔と変わらず易い相手ではないのだ。いやもしかすると過去以上に。
アイズは一瞬の内に思い起こしてしまった記憶に蓋をした。どう考えても、あまり良い思い出は残っていない。
「それで、こんな所にまで足を運んでいったい何の用だ?」
わざわざ来ておいて退院報告なんて事はないだろう。含ませたニュアンスを、相手は短い言葉で認める。
だが、肯定したというのにその後に妙な間が数秒続いた。
敢えて問いを重ねず訝しげな視線をじっと注いでいれば、さすがに堪えたのか相手はのろのろと口を開いた。
「…非常に言い難いんだが、」
「ああ…」
「つまり…手短に言うと、」
「なんだ?」
案外面の皮が厚い彼がこうも言い淀む理由が分からないアイズは、僅かに緊張した面持ちで相手の言葉を待った。
「…治療の過程で予期しない副作用が起こってな」
「…それで?」
さっきある程度回復したと言うような主張をしていたのは気のせいか、という問いを飲み込んで先を促す。これ以上の回り道は御免だという気持ちで。
それを察したのか、最終的に彼は諦めをそのまま音にしたような声で話した。
「記憶にいくつか欠陥がある事が分かったんだ」
記憶に、欠陥。
言われた言葉を反芻して、アイズは眉を顰めた。
「どういう…事だ?」
「端的に言うと、俺にとってアンタは殆ど初対面の相手って事だ」
諦めきったのか、酷くざっくりとした言葉がアイズの頭に突き刺さる。
コイツは、何を、言いだした?
「ブレードチルドレンに関してだけ言えば、流れや状況なんかは理解している、と思う。だけどそこに付随する人間関係やなんかに妙な穴があるんだ」
「穴?」
「そうだな…ページが所々欠けてる本を読んでるような、って言えば近いか?」
考えを巡らせるように視線を動かすのに合わせて、彼の手にある傘が揺れた。
性質の悪い冗談かなにかか、と衝動的に吐き出したくなる。だが傾きに踊る雫に、アイズは濡らした体の冷えを思い出していた――― これは現実だ。
冗談だったら、迷わずこいつを殴り倒せるのに。
「…ふざけるな」
思わず零した声に、彼は虚を衝かれたように瞬いた。だがすぐにそれは苦笑に替わる。
「悪い…いくらでも詰っていいが、」
「違う。誤解するな」
跳ね除けるように謝罪を否定すると相手は再び不思議そうな顔をした。察しが悪いのも後ろ向きなのも結局過去と大して変わらなかったのだろう。少し、哂う。
「変わらないな」
「…褒め言葉じゃないな?」
「当たり前だ」
ほんの少し顔を顰めた相手に溜飲が下がる。彼を嫌がらせる事が出来るとなんとなく気分がいい。
自分の意地の悪さを自覚してアイズは更に笑みを上乗せた。客観的にはほんの些細な唇の動きに過ぎなかったが。
「思い出さない方がいい、とは思わないか?お前にとっては重荷とも言える記憶だろう」
ぱたぱたぱた、と軽やかな音を立ててお互いの傘の上を雨粒が跳ねる。それに合わせるように、相手の瞼が一度二度と瞬く。
それこそ意地の悪い問いだっただろうか。冷えて湿った空気に落ちた沈黙の中、雨だれに耳を傾けて思う。今更か。
そう、お互いに。
「そうだな…そうかもしれない」
否定できないとでも言うように、彼は苦笑する。思考に答えるようなそれに刹那驚き、それが問いの答えだと気付くのが一拍遅れた。
その一拍の間に彼は続けた。でも、と。
「それでも多分、俺はあんた達が嫌いじゃなかったから…その“荷”とやらを背負ってたんじゃないか?」
だから、今降ろす気もないんだ。
その言葉も表情も、アイズの予想していたものとは違って。
「………。」
「そんな不服そうな顔するな」
言って、彼が笑う。少し楽しそうなそれにアイズは息を吐いた。やはり意地の悪さなど互いに言及するまでもない。
向かい合ったままの視線を外し、アイズは歩の横を素通りして歩き出した。
「…ついて来い」
「何処へ?」
「ここでゆっくり話をする訳にもいかないだろう?もう充分頭は冷えた」
「それもそうだな」
頷き、後ろからついてくる彼の姿を肩にかけた傘で遮る。
結局彼が鳴海歩である事に変わりがないなら、自分の世界にとって全ては些事だ。
「そういえば…邪魔して悪かったな」
思い出したのように背後で呟かれた声に振り返る。相手は更に後ろにある墓石の名前を見つめたままだ。アイズは気付かれないと知りつつ、それに小さく首を振った。
the world innocent of, you?
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色々説明不足な話です。(最初に言え)
続きを書くために書いたのに、ここまででもう力尽きた感じがします。(苦笑)
080503