あたしの名前は小日向くるみ。面倒だからもうこの名前だけで諸々の事情くらいは各々悟ってくれ。
というわけで、あたしは今日も、そう今日も!警視庁捜査一課に出向いている。
世の中がピンキッシュで茶色い雰囲気に踊らされている中でも、ここは変わらずすさんでる。今のあたしにとってはありがたいことだ。
何故かって?理由は簡単。踊らせるならともかく踊らされるのは真っ平ゴメンなあたしが、未だこのふざけた状況で踊らされっぱなしだ。よりにもよってあんなすちゃらか駄目男の鳴海清隆なんかのせいで。こんな時にお菓子会社なんかの陰謀にまで踊らされてやるものか。
固く誓ったあたしはいつもと変わらず手ぶらで憎き敵がいるはずの部屋に足を踏み入れた。
でも、驚いたことに中にいたのは敵本体じゃなかった。
「何でここにいるんだ、弟」
いつもは清隆がだらだらするためとか、もしくはそんな清隆への部下からの制裁の道具にされるために存在するようなソファが、今日はまともな使い方をされていた。使用主はちょこんと行儀よくソファの端の方に座った鳴海の弟一人、と。
弟の横にはひとつ包みが置いてあった。ラッピングされた菓子折り、とかそういう分かりやすい物じゃない。地味に派手な風呂敷包みだ。矛盾していると言われようともそうとしか言い様が無い。
ちなみに、不吉な言い方をするなら大きさは骨壷を入れる箱包みにぴったりくらい。
あたしの質問に俯き気味だった顔をあげた弟は、今にも溜息を吐きそうな顔で、溜息の代わりに答えを口にした。
「兄の我儘に応じた結果です」
まあそんな事だろうとは思っていたけれど、それじゃあ明確な答えになってない。
あたしの不満を読み取ったのか、弟は一度考えるように視線をずらしてもう少しまともな言葉を見つけた。
「届け物に」
「ふーん?それ?」
骨壷サイズの風呂敷包みを指し示すと、弟は案外素直に頷いた。
「小日向さんの分もありますよ」
「…あたしの、分?」
骨壷、面倒だから以下略のそれの中身はどうやら複数人に分け与えられるものらしい。中身が骨じゃない事を祈るばかりだ。そんなもの、分けられるだけあっても分けて欲しくない。
「肝心の鳴海清隆は何処にいる?」
「部下に引きずられてどこかに消えたとしか」
伝聞の曖昧さで弟は小首を傾げる。知らないなら仕方ない。心許ない情報にはさっさと見切りをつけよう。
「で、それは?」
傍にあった椅子を引き寄せて、弟の向かいに座る。ソファと椅子だと高さの差がある上に元々の身長差で視線がまったく合わないけれど、弟は気にするでもなく風呂敷包みをソファテーブルの真ん中に置いた。
説明するより見せた方が早いって事か。一見堅そうな結び目を簡単に解いて、弟の手が丁寧に包みを四方に開ける。
出てきたのは勿論、骨壷じゃなく普通の箱だった。三段重ねのコンパクトな縁高重。漆の黒に塗られたそれの側面には金の蒔絵。蓋にも趣味のいい細工がしてあった。
「…兄に差し入れか?」
「いえ、兄から頼まれた贈り物です」
「贈り物って…」
この縁高か?確かにそれなりに高そうだけど、さっき弟が“小日向さんの分”と言ったからには分割できるものだろうと想像していた。いや、分割しようと思えば重箱一段ずつ分けられるか。
…なんてのはもちろん馬鹿な考えだ。普通に考えるなら縁高の中身を分けるに決まってる。
どうも最近鳴海清隆に毒されてるのか思考がなんか変に捩くれてきたような。気をつけなければ。あんな大人にだけは絶対になりたくない。
「中に何か入ってんの?」
「はい」
弟が頷いて蓋を開ける。一番上の段に入っていたのは小さなホールケーキだった。
なんで縁高重にケーキ。
煉切とか和三盆とかなら分かる。スコーンやクッキーでもまだ許す。でもこんな見事なホールケーキをわざわざ三段重ねの一番上に入れる理由が分からない。取り出しづらいしまず入れづらかっただろうに。
「…何これ」
「ケーキです」
「それくらい見りゃ分かる。そうじゃなくてだな…」
「…チョコレートケーキです」
少し間を空けて返ってきた答えも的外れだった。というか意図的に的を外してる感じだった。
「君さっき清隆からって言った?」
「言いましたね」
「………。」
「作ったのは僕ですが」
嫌悪感が顔に滲み出てたのか一応のフォローみたいに補足説明が入った。
そりゃあの最低男の作った物だったら是も非もなく拒否するけど。でも目の前の少年がこれを作ったんだろうって事は簡単に予測できた。何故かって?それは見た目からしてありえない凝り方してるから。
全体は薄いクリーム色で覆われていて、表面に何故か薔薇の花が同じ色で描かれてる。葉っぱや棘まで白で、その上から多分飴みたいなものでコーティングされてるのか妙に光沢があった。
「もしやバレンタイン?」
「だと思います」
せっかく無縁そうな所に来たと思ったのに予想外の伏兵が潜んでやがった。
食べますか?と弟が無責任で魅惑的な問いを投げかけてくる。
この暗くて幸薄そうな少年の作る料理が、その美味しくなさそうな雰囲気を差し引いても充分過ぎるくらいに美味しいのは身に沁みて分かってる。分かってるからには食べたい。だけど明瞭な乙女の欲求をあたしが必死で抑えるのは、そのケーキが清隆からの贈り物だというその一点。それがどうしようもなく問題なんだ。
究極の選択を迫られてうんうん唸っているうちに、不意に気がついた。その重ねは三段ある。
「下二段は?同じ物が入ってんの?」
「はい…あ、いえ。少し味は違う物が」
蓋を脇に置いた弟の言葉に重ねを一段持ち上げる。と、そこにはピンクがかった白いケーキ。薔薇のデザインは概ね同じだった。そして更に下の段には焦茶色の、同じようなケーキが入っていた。
「…味も清隆指定?」
「いえ、色を指定されて」
「ふーん…花言葉にでも引っ掛けてんのかな」
だとしたら中段が羽丘さんで…あれ下段は?
「それが羽丘さん、そっちは斉木さんの分だと思います」
絶妙なタイミングで、弟は尋ねた覚えの無い疑問に答えを出した。
妙な感じがして思わず弟を凝視してたら、別な意味で取られたのか「兄は特に誰とは言ってませんが」と注釈をつけた。違う、君の自信の程は正直どうでもいいんだ。多分当たっているだろうしな。
「嫌がらせか」
「七、八割が遊び混じりの嫌がらせですね」
「二、三割も別な要素があるってのか?」
「一割くらいは僕の日頃の感謝の気持ちと思っていただければ」
弟はそう言ったけど、あたし自身は弟に感謝されるような覚えが無い。
「…兄がお世話になってますし」
つまり感謝と言うよりむしろ詫びの気持ちか。確かに君の兄には非道な目に合わされているが、弟が謝る事でもない気がする。本当に妙なところで出来た弟だ。
「じゃあ十分の一切れだったら食べても清隆の面倒な要望に応える義務もないな」
これで奴への言い訳は編み出せた。
「よし。ナイフとかフォークとかある?」
「…これなら」
消極的な応えでやや申し訳なさそうに弟が取り出したのは“くろもじ”だった。茶道でお菓子を戴く時に使う、いわゆる楊枝。
確かに金属製の物を使ったら器に傷がつきそうだけど。そうまでしてこの器に拘らなきゃいけない理由はなんだ、といい加減気になって弟に尋ねてみれば。
「これも兄の指定なので」
どこまで人をおちょくれば気が済むんだあの男は。
「くそ…絶対に正確に十分の一切り取って食ってやる」
近くにあった真っ白な紙を上手く折りたたんで十等分の目安を作って、弟にも手伝って貰いながらあたしはどうにかその小さなくろもじでどうにか硬いケーキから一切れを切り出した。
「よし出来た!」
「随分とご苦労だな、お嬢さん」
喜びに歓声を挙げた正にその瞬間だ。
「この十分の一は歩君の気持ちとして貰うんだからあんたにはこれっぽっちの感謝も抱かないからね!」
にこにこ(というかむしろあたしの心情的にはにやにや)笑っている清隆に宣言すると、奴は一度わざとらしく目を瞬いてから口を開いた。
「別にそれはそれでも構わないが、」
「『が』?」
なんだなんか問題があるってのか?
「そう言うからには、歩の気持ちに対してお返しをする心積もりはあるのかい?」
尋ねられてから、それを吟味するのにしばしの時間がかかった。
そう言われてみればそうだ。清隆にばかり意識を裂いていたので気にも留めなかったが、一応貰った分は礼を尽くすべきだ。だがこの少年にいったい何を返せばいいと言うんだ。
ケーキにくろもじを刺したまま考えていると、弟の方が溜息を吐いた。
「構わないで下さい。迷惑かけてるのは主に兄ですから」
「いや、私が彼女のお祖父さんのせいで迷惑を被っているんだぞ?」
「被害者面するな兄貴。被害なんてまったく受けてないくせに」
「酷い言い草だな。こうして愛する人とすら碌に会えないバレンタインを過ごす事になっているのに」
「その理由の大半が兄貴にあるんだろ」
取り合う気はなさそうに弟は風呂敷包みの上にくろもじをさらに二本置いてそれ以外の自分の荷物をまとめた。
「じゃあ小日向さん、兄の言い分は無視して全部食べてくださって構いませんから」
「あ、こら。一応材料費は私持ちだぞ?」
「生活費の中から引いても構わない程度に収めてあるんだから文句はないだろ?」
「一家の大黒柱はもうちょっと敬え弟よ」
「敬える要素があればな。もし羽丘さんと斉木さんに食べてもらえなかったら、それは兄貴が責任持って処分しろよ」
「絶対にそうはならないから安心しろ」
「むしろ同情しそうだ」
「お前も共犯だろう」
清隆の言葉を弟は否定はせずに肩を竦めただけだった。弟にしてみれば、単純に日頃兄が世話をかけている人へのせめてもの詫びの印だったのだろうが。でも兄に利用される事も承知の上だったわけだからやっぱり共犯か?
「じゃあ、俺はこれで」
ぺこりとあたしにだけ会釈をして彼はすたすたと帰っていった。本当にこれだけの為にここまで来たのかあの少年は。
「お返しねぇ…」
面倒になってきたのであたしはとりあえず切ったケーキを齧ってみた。ホワイトチョコの硬い触感が割れると、次に柔らかなスポンジとそれに挟まったクリーム。中に少し混ぜてあるカカオの苦味がまた悔しいくらいに絶妙なバランスだ。
「…あの子なんか貰って嬉しいものってあるの?」
「そうだな…調理器具なら概ね喜ぶぞ。ただし必要なものは自分で見定めて買ってる節があるから下手な選択をすると困りそうでもあるが」
「兄ならひとつくらい喜ぶもの見つけてやりなよ」
呆れて告げると、清隆は弟の居なくなったソファに納まって顔を歪めた。
多分、それは一般的には微笑みと表現される顔だったんだろう。
「知っていても、差し出せないものが多すぎてね」
ぽつりと零れたそれが何故か妙な意味を持っているような気がしたけれど、あたしはそれを聞き流した。
「とりあえず、それを全部食べてくれると喜ばれると思うぞ?」
「………。」
いやに明るく勧められれば訝ってしまうのも真理だろう。特に鳴海清隆が相手ならなおさら。だけどケーキは美味しい。美味しいものに罪はない。でも。
「これ食べるとなんかあたしが不利になる気がするんだけど」
「気のせいだとも」
「…なんかあんたの方が喜んでない?」
「可愛い弟の為になる事をするんだそれはそれは喜ばしいとも」
「………。」
この上なく胡散臭い。なんか裏がある気がするのは本当に気のせいなのか?原因は明らかに目の前にいる相手なのに、その曖昧な予感をきっちり論証出来ないのが酷くもどかしい。その上、
「今回は失敗点がなく上手く出来たと自己評価も高いようだぞ?」
勿体無いな、なんて嘯くコイツが本当に恨めしいけれども。
「…しょうがない。今回だけはあたしから快く折れてあげようじゃないの」
「おお。愛のなせる業だな」
「これは義理人情の範疇でしょ」
十分の一だけを欠けたケーキに、今度は躊躇いなくくろもじを突き刺す。慣れてくるとこれもまた面白い。
「とりあえずお礼は言っておいて。ご馳走様ってね」
「どういたしまして」
あんたに言ったんじゃない。妙に満足そうに笑ってる清隆を睨みつけながら、あたしは更に一口、甘くて苦いケーキに齧り付いた。
その後、羽丘さんは素直に喜んで、斉木さんは歩君の気遣いに負けてそのケーキを手にする事になる。
そうつまりまた結局鳴海清隆の思い通りだ。
でも次こそは、ああ次こそはまともな事件でもって完膚なきまでにあたしが勝って見せるんだから覚悟しろよ鳴海清隆!
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愛妻弁当でバレンタイン。