貴方から伝わる季節外れの体温に、どうしてか安心してしまう。
キーホルダーの類も一切つけられいていない、ただそれひとつを手の中で一度転がすとそれは掌からはみだしてコンクリートに音を立てて落ちる。
しゃがみこんでそれを拾おうとして照り返しの強い道路の熱に当てられ軽い眩暈を覚えるが、それを無視して僅かの内に熱を持った鍵を掌に戻し、哀は数歩の距離を急ぐわけでもなく歩く。
一応、というようにインターホンに指を伸ばすが、鳴らした後の反応は期待せずに手の中の鍵を鍵穴に差し込んで回す。
『お邪魔するわよ』という言葉は胸の内で呟いて消えた。どうせそう言ったところで返事はまた期待できないと分かっている。
この通称"幽霊屋敷"の現在の主は在宅しているか否かというよりまず起きているか寝ているかという問題が第一に挙がる。そして例え起きていたとしても小説という魅惑的なお誘いにかかっていれば平気で周りが見えなくなる。
その結果かなりの高確率で返事は期待できない。
それは特にここ数週間で増長された彼の悪癖だ。
「あら?」
玄関にある靴が全て新一のものであることに気付いて、哀は首を傾げた。
いつもならこの中に明らかに新一のものではない、使い込まれた某有名メーカーのスニーカーが転がっているのだがそれが今日はないのだ。それはつまりある人物の不在を示す。
そのことの確認も含めて哀はまずリビングのドアを開けた。
覚悟はしていたが、予想以上の状況に哀は溜息を吐いた。
下手をしたら外気温との温度差が10度はありそうな涼しい、否『寒い』室内に思わず身体が震える。
この室温ならばこの家の主もこの部屋に居るに違いないと部屋を見回すが、哀の視界に入る範囲には誰も居なかった。
「工藤君…?」
訝しげに呟いてみるが反応はない。
この部屋を放置して書斎に居るなどと言ったら呆れて言葉もないと思いながら、一応というように部屋の中を見回しながらドアからは見えなかった死角を覗き込む。
と、ドアに背を向けたソファの端からだらりと垂れている2本の足に気付く。
回り込めば、そこにやはり彼は居た。
「カッターシャツ1枚にジーンズでこの室温、ね…」
いい度胸じゃない。と内心冷ややかに笑って胸の上に伏せられた分厚い本をそっと取り除く。
「こんなモノじゃ布団代わりにならないわよ」
丁寧に栞を挟んでサイドテーブルに本を置き、心なしか蒼褪めた肌を見下ろす。
「馬鹿にも程があるわ」
剥き出しになった白い首筋に手を伸ばせば、冷え切った身体が哀の手から温度を奪っていく。
『繰り返すけど、私に殺されないという保証はないわ』
哀は以前そうコナンに言ったことがあった。未完成の解毒剤を手渡した時に。それ以前から何回も。
それはきっと『殺した』とはいえないのだろうけれど、それでも哀はそれを自分の責任にするだろう。そしてそれを知っていながらコナンは笑って毒にも等しい薬を口に放り込む。幾度も幾度も改良して、決して無駄とは言えずとも微々たる成果しかえられないことに恨み言も言わずに。
「いっそ責められれば、こんなに苦しまなかったでしょうね」
そして真綿で包まれるようなぼやけた苦味ばかりを与える相手を、いっそ愛惜しさすら感じるほどに憎めたのなら。
結局はどこかの白い怪盗が好むようなのドロドロの甘味にも、自分達が愛飲するコーヒーのような苦味にも届かずに中途半端なまま、馴れ合いも出来ずにいる。
気付けば同じように冷えてしまった指先を新一の首から外して、その冷えた身体がこれ以上冷気に当たり続けるのを阻止するために哀はエアコンのリモコンを探すため新一から視線を外した。
だがその途端、腕が空気以上にひやりとした感触に掴まれた。
「……っ!」
「あ……?」
ぼんやりと焦点を結ばない瞳が向けられ、理知とは程遠い声が緩んだ問いをかける。
咄嗟に言葉を返すことが出来かった哀に、力の入らない手がぽすぽすとソファを叩いた。来いと言うことだろう。
訝りつつそれに応じた哀は、示された場所へとりあえず腰を下ろした。
途端に本人の意思を無視して後ろに引っ張られ、体勢を崩しながらもその原因が一瞬なんなのかが分からずに哀は悲鳴をあげることも出来ずにただ倒れこむ。
倒れたその先が、ソファに寝ていたはずの人の腕の中だと気付くまでに数秒がかかった。
「工、藤君?」
後ろから抱きこまれ、そのまま横倒しにされ、振り向こうとしても体勢が悪いせいか叶わず、抜け出そうにも腕ごと抱きしめられているため上手くいかない。
まるで熱を求めるように腕を絡めてくるそれは、幼子がお気に入りのぬいぐるみを抱きしめている状態に似ている。
だが振り向かずとも耳にかかる息で確認は取れた。規則的な呼吸音は明らかに睡眠時のもので、つまり新一のこの行動は熱を求めた結果の無意識下の行動。
「行火が必要なくらいに寒いのなら素直に起きなさい…」
早々と無駄な抵抗を止めて、哀はその腕の中で溜息をつく。
冷えた腕に抱えられた身体は、思いの外心地の良い暖かさも感じていた。
どんなに冷えても生きた人間には体温を分け合える機能が残っているようだ。
少し疲労が残っているのか、気付けばその暖かさに眠気を誘われる。
『怪盗さんが来たらどう思うのかしら』
それはそれで見ものかもしれない、と思いながら哀は諦めて眼を閉じた。
不自然に冷え切った部屋で感じる体温はまだ彼が生きていることの証明だ。少々大袈裟で、でも笑えないその考えを浮かべながら、まだ人の体温に安堵を感じる自分が少し滑稽だった。
「うわ何この部屋…寒」
入った瞬間体温を根こそぎ奪われそうな室温に身体を震わせて、快斗はリモコンを探すため視線を彷徨わせた。
その視線が、ソファからはみ出た足に釘付けになる。
「新一?」
寝ているのか、と思いながらその姿を確認するためにソファの後ろから覗き込む。
「………う、わ」
夢だろうか。むしろ夢であって欲しい。
現実逃避しかける意識を必死で捉まえ、快斗は愛しい人とその腕の中に囲われたままの少女が、見た限りでは睦まじく眠っている様を凝視する。
「まさか…いや、でも。起こしていい、の…か?いいんだよな?んや、でも…」
出来れば早く起きて自分の誤解(と思いたい考え)を解いて欲しいのだが。
「これはちょっとマジに妬ける…」
そのあまりに気持ちよさそうな寝顔にうかつに手を出すことも出来ずにしばし悶々とする快斗だった。