ねえどうして、どうして、ばかり言うの。答えなんてないのに。
家に帰ってきてリビングのドアを開くと、こちらに背を向けてソファに座っている人物の頭が見えた。
「おかえりー」
振り向かずにそう言った相手に応えることはせずに、ドアを閉める。
どうしているのだ、とか。
そんな根本的な疑問を差し挟む気すら失せる程にはその状況に慣らされてしまっている。
疲れているのか妙に身体が怠くて、2階へ上がる階段をゆっくりと上りながらその怠さを払うように考える。
この家の合鍵は隣の家の住人と、海外に住む両親と、幼馴染の手元、そして現在唯一の住人である自分の手の中にあるのみで、気がついたら他人があがりこんでいるこの状況は決して普通ではないのだろうけれども、それを疑問とする時期はずいぶん前に過ぎた。
それこそ初めは『どうやって入った』から始まり『何故いるのか』とか呆れる程に疑問は尽きなかったが、そもそも『どうやって入ったか』なんて相手が相手なだけに気にするだけ無駄だった。そして『何故いるのか』という疑問は、訊いたところでまともな答えが返ってくるとも思えなかった。実際まともな答えが返されたことなんてない。
そして今に至る。
我ながらちょっとどうかと思わなくはないが、どこかそんな警戒が不必要だと言うような雰囲気を相手が持っているから、うやむやのうちに気付いたらそこにいることが逆に日常にまで成り果てそうで。
それもまぁべつに問題はない、と思うあたりがもうダメかもしれない。
大して深刻さもない思考を纏めて、自分の部屋に戻ってドアを閉める。
否、閉めようとしたら阻止された。
「どうして返事してくれないのかな」
「なんで今更んなこと聞きにくるんだ?」
「リビングに戻ってくるかなぁ、なんて期待してみました。」
「いっそ一生そこで不毛な期待でもしてろ」
「プロポーズ?」
ドアを手で押さえている相手に呆れて、新一はドアを閉めることを諦めてその横をすり抜けた。
「あれ、どこ行くの?」
「お前のいないとこ」
「無理じゃない?」
返された言葉にさすがにむっとして、新一は背後霊のようについてくる快斗を見たが、邪気もなく笑う表情に怒るのも馬鹿らしくなった。
代わりに無駄だと分かっている問いをまた繰り返してみる。
「なんでお前ここにいるんだ?」
「新一が好きだから」
「あー、そ」
いつも通りのふざけた言葉が返ってきて、新一はまたいつも通りにその答えを諦めた。リビングまで戻り、さっき快斗がいたソファに座る。
「誠意のないお応え」
「お前の方が誠意がないだろ」
「失礼な」
「コーヒー」
「それでも俺に頼むのね」
「だってお前客じゃないし」
「なら新一君にとっての俺って何」
「……………」
ふ、と黙り込んだ新一に快斗は胡乱げな視線を向ける。
「……今『召使』とか『下僕』とか考えなかった?」
「いや、ま、なんだろな」
「いいけどねー。とりあえず都合のいい存在で」
まさにその通りなので反論はせずにキッチンに向かう快斗の背を見る。
しかしどうして彼が"そんな存在"に甘んじているのかが新一には分からなかった。
会ったばかりの頃は、顔を合わすたびに気を張っていたが、"快斗"の顔ばかりを見ているうちにそのあまりのギャップに呆れて気を張ることもしなくなった。
何を企んでいるのか、どんなメリットがあると言うのか。考えては警戒心を叩き起こそうとするのだが、いざ相手を見るとやる気が失せる。それも相手の手の内なのかと思えなくもないが、そこまで考えている自分の思考がやはり無意味なものに感じるのだ。
アレが怪盗キッドなんだよな、なんてたまに確認したくなる。『アレのどこが?』という思いばかりしているせいか最近は"キッド"の表情より"快斗"の表情の方が記憶の中でより色が濃い。
それでも時々"キッド"を思わせる部分があるのも確かだ。
でもそれは"キッド"らしさではなく、本当は。
「お待たせー」
シンプルな新一用のコーヒーマグを新一に手渡し、別のソファに座った快斗は自分用のマグカップでカフェオレを飲んでいる。
一口コーヒーを飲んで、新一は顔を顰めた。
「甘い」
「『糖分摂取させろ』って」
「灰原か」
「ピンポーン。ドクターには逆らえません」
にっこり笑う快斗は、なにを出せば新一を効果的に黙らせられるかを知っている。
溜息を吐いて、その少々甘いコーヒーを新一はもう一口飲んだ。快斗の嫌なところは、甘くても飲みたくなるくらい他に文句のつけようがないコーヒーを淹れてくるところだ。
「角砂糖たった一個で甘い?」
「お前の味覚がおかしいんだ」
ミルクたっぷりに砂糖がいくつ入っているのか分からないカフェオレの方が新一には信じられない。
が、曰く『コーヒーの風味は好きだけど甘い物も好き』だから結果そうなったらしい。それはコーヒーに対する侮辱じゃないのか、と思いつついつだったか練乳を入れているのを見て文句を言うのをやめた。結局快斗自身が美味いと思うものを口にすることが特別新一に害をなさない限りどうでもいいとも言える。
マグカップを手で包み、新一は甘い甘いカフェオレを幸せそうに飲んでいる男に視線を向けた。
甘いものが好きなこと。
冗談かと思うほど魚が嫌いなこと。
基本的なプロフィール。
その他諸々。
知っていることを頭の中に挙げ連ね、新一にとっては別に必要でもなんでもないデータがそこに混ざっていることを再認する。とどのつまりそんな情報は新一が問うたのではなく快斗が勝手に喋ったもので、どの話も快斗の作り話の可能性もある。
だが。新一は思う。
その話の、取るに足らないほんの小さな日常的なことでさえただの一片の嘘さえ紛れてはいないと、どこかで知っている。
かといってなんでもかんでも話しているわけでもない、とも思う。快斗が何故キッドをやっているのか、とか。
キッドが追っている組織があるということと、快斗の父親のことさえ知ってしまえば大体の事情は読めるが、どこまでも憶測を出ない領域での推測で具体的な目的を知っているわけではない。
「見惚れてる?」
「は?」
「イイ男でしょ」
軽口に我に返った。そういえば快斗に視線を定めたままだったということに今更気付く。反論をしようかとも思ったが、結局口を噤んだ。
噤まざるをえなかった。
熱くもないマグカップを持つ手が、じんわりと汗ばんでくる。急速に熱を帯びる身体に、新一は内心で舌打ちした。
「……新一?」
マグカップの水面を見据えたまま硬直した新一を訝り、首を傾げた快斗。それに「なんでもない」と応え、新一はソファから立ち上がった。
立ち上がった途端に感じた眩暈をやり過ごして、マグカップをテーブルに置く。
とにかく、快斗のいない場所へ行きたかった。
そこでふと数分前の快斗の言葉が耳に甦る。
『無理じゃない?』、と。
「無理じゃねぇよ」
掠れた声は、音にはならず。空気を震わせる吐息ほどにもならなかったその言葉は快斗に届くはずもなかった。
じわじわと熱に骨を侵される感覚。もういい加減それに慣れてもいいものだと思いながら新一はテーブルに置いたマグカップの傍に手をついた。
一度熱をやり過ごすように息を吐いて、新一は立ちなおした。
「悪ぃ…ちょっと眠いから寝る」
「うん」
「邪魔すんなよ」
「……オーライ」
なぜか苦笑するような気配。
だがそれを気にする余裕はすでになくて、身体がふらつくのを抑えて部屋を出る。そして自室のベッドに倒れこむように横たわって、新一は軋み出した身体を折り曲げて懸命に声を堪えた。
* * *
水底から浮上するように意識を取り戻して、最初に目に入ったのはライトブラウンの髪だった。
「……工藤君?」
覚醒を確かめるように呼ばれた名前で大体の状況を把握したコナンは気怠い身体をゆっくりと起こして横に立つ哀を見た。
「悪ぃな、出張診察させて」
「いいえ。そろそろだとは思ってたし」
小さな手に手首を掴まれ、掴まれた自分の手が同じように小さい事に少し笑う。
「……今は落ち着いてるわね」
「いい加減慣れたしな」
お互いに。
何度となく不完全な薬を飲み込んで、少しずつ本来の姿でいる時間を延ばして延ばして、でもまだ解毒剤が完成するまでは至らない。
「随分楽になったよ、前よりは」
「当たり前でしょ。改善されなきゃ飲ませないわ」
努めて軽く言えば、哀は素っ気無く言い返す。しかし時にその手が何かに怯えるように震える事をコナンは知っていた。
そう、何度も繰り返された。
『私に殺されないという保証はないわ』という言葉。
あれはコナンへの忠告。
そして哀の自身へのプレッシャーという棘を含んだものだ。
苦味を思い出す前にコナンは思考にストップをかけた。
「…にしても灰原、やけにタイミング良く来たな」
いくら予想していたとはいえここまで丁度良く現れるとは、とコナンが不思議がると哀はあぁ、と思い出したように答えた。
「黒羽君が、呼びに来たのよ」
「………は?」
「様子が変だったからって。でも『邪魔するな』って言われたから覗けないって」
呆れた忠犬ぶりね、と呟いて哀はコナンに体温計を差し出す。
『でも、哀ちゃん呼ばないでなんて言われてないしね』
そう言って笑っている顔が見える気がした。
「…それでアイツは?」
「病人食を下で作ってるわよ」
「……病人食?」
「そう。さっさと計りなさい」
体温計をなかなか受け取らなかったコナンに哀が呆れたように体温計を振る。
促されたコナンはそれに逆らう気もなく、素直に計り始めた。
やがて聞こえた小さな電子音にそれを取り出せば、37.9℃を示していて。
「あ?」
「立派な風邪ね」
体温計を片付けて、哀は軽く言った。
「元々免疫力が落ちてたんでしょう。そこに薬の効果が作用して悪化した」
「あぁ… 道理で身体が怠いはずだ」
「そういうことはもっときちんと自覚して頂戴」
呆れたような口調にコナンが気の入らない了解の言葉を返すのとほぼ同時に、ドアが叩かれた。
「哀ちゃん具合どう…あ、起きたんだ」
「ご苦労様」
「いえいえ」
エプロン姿でお盆の上には粥の器と水の入ったコップ、それに冷えピタが載っていた。
「抗生物質を一応飲ませて。酷くはないけど…しばらくは安静に」
「了解」
にっこり笑って頷いたのはコナン本人ではなく快斗。元々コナンに言い聞かせるより快斗にどうにかしてもらった方が早いと哀も思っているようだ。
「というわけで、熱いから気をつけてねー。それとも先に着替える?」
「………オメーよ」
「なに?」
「ガキ扱いしてねーか?」
「してないよー。はい、あーん」
「オイ。」
「食事と睡眠は基本よ、"江戸川"君。お大事に」
揶揄の気配を含んだ言葉を告げて、哀はぱたん、とドアを閉めていった。それを視線だけで見送って、コナンは目の前にいる人物をうんざりと見上げた。
レンゲに載せた白粥を差し出している相手に、本気で気が抜ける。
これが夜を駆ける"平成のルパン"の姿だと思うと2課の刑事が不憫でならない。
「ほら、ちゃんと食べないとダメだよ」
「食べっから寄越せ」
「熱いから冷ましながら食べさせてあげるって」
「いるか」
「遠慮しないでよ。はい、あーん」
「ヤ・メ・ロ」
精一杯の抵抗を試みながら、コナンは内心溜息を盛大に吐いた。
とりあえず改めてコナンは思う。彼に『どうして』と訊ねることのバカバカしさに気付くくらいには、新一は快斗の昼の顔を知っていた。
それは快斗に言わせてみれば、『新一が信じない限り答えなんてない』から、意味のない問いかけとなるだけのことなのだが。