自分を守るためになんて、そんなこと言わなくていいように。


 ぴーんぽーん。


 間の抜けた、しかしオーソドックスなインターホンの音に気付いていながらも哀が動き出すまでにはたっぷり5秒は間があった。
 その5秒の意味といえば、同居人である博士の不在を思い出し、億劫さを押してまでドアまで行くことの意義を考える―――つまりは居留守をしようかどうかを迷い決断するまでの時間だ。そう考えれば早い方だとも言える。
 そして訪問者には幸いなことに、哀は居留守を使わないほうを選択したわけだが、哀はドアの前にいる人間を察すると、居留守を使ってもよかったかもしれないと思った。
 性質の悪い訪問販売の方がまだ撃退し甲斐があった。
「やほー。哀ちゃん」
「………何の用かしら」
「ちょっとお茶にお呼ばれさせてくれませんかーって伺い」
「何故?」
「クッキー作ってみたから食べて欲しいんだけど」
 にこにこ笑って手に持った包みを示してみせる。
 朝からキッチンにこもってエプロン姿で喜々としてお菓子作りに励むところを想像して、そのあまりにお似合いな姿に哀は口端だけで笑った。
「いいわ。あがって。……今日は一人なのね」
「あっちはまだ風邪っぴき」
「置いてきたの?」
 頼まなくても入り浸って世話を焼きそうな相手に訊ねれば、
「追い出されマシタ。」
 と、あまりにらしい言葉が返ってきて哀は深く納得した。





「紅茶でいい?」
「コーヒーでもいいよ?」
 サーバーにストックされたものを指して快斗が言うと、煮詰まっているからダメという答えを返して哀はケトルを火にかける。
 勝手知ったるとばかりに菓子を載せるための適当な皿を取り出す快斗のために砂糖とミルクピッチャーを探し出して、哀は紅茶の缶とともにそれを並べた。
 透明なティーサーバーに茶葉を入れ、沸騰する少し前のお湯をケトルから注ぎ込んで冷たいミルクと砂糖を一緒にテーブルへと持って行けば、目にも美味しそうな焼き菓子が大皿の上にずらりと並んでいた。
「どうぞ召し上がれ」
「……いただくわ」
 クッキーをひとつ摘み上げて口に持っていくと、さく、と乾いた音と共に少しだけ甘い風味が口に広がる。
 その味にどこかほっとして哀は「美味しいわ」と呟いた。
「ホント?甘すぎない?」
「丁度いいと思うけど」
「そう?良かったー」
 にこにことさらに勧めながら快斗自身もクッキーに手を付ける。
「味見してるのよね?」
「もちろん。でも俺の好みと哀ちゃんの好みの違いがまだよく分からないからさ」
「……工藤君にも食べさせたの?」
「まだ。食べてくれるかなー、とちょっと期待中」
「甘いものは嫌いじゃないと思うわよ」
 控えめな快斗の言葉に首を傾げれば、頷きながらも快斗は唸る。
「でもあんまり好きでもないよね」
「あなたと比べたら大概はそうね」
「というか…なんかさ…」
 もごもごと口の中で言葉を捏ね繰り回している快斗を哀は無言で促す。
「…俺の料理食べてる時、たまーに変な顔するんだよ、新一」
「変な顔?」
「多少歪んだって整った顔だけどねー」
 同じ造作の癖に簡単に褒めるあたりどうかと思ったが、本人達は「まったく違う!」と思っているという事を前に聞いていた哀はそれについては特に言及しなかった。
「『不味い』ってこと?」
「ではないって言ってるんだけど…やっぱり気になるんだよー」
 さすがに新一の真意は掴めず哀も疑問に内心首を傾げたが、どことなく予想はついた。
 だがあえてそれは口にせずに別のことを挙げてみる。
「魚料理がないからじゃない?」
「ヤメテっ。"アレ"の名前も聞きたくない!」
「あら。美味しいし、可愛いと思うけど」
「どこが!?あの無駄にてらてらしてる表面もなんか恨めしげにこっち見てるみたいな目もやたらぱくぱくしてるのも嫌っ。あいつら鰓でしか呼吸しないし!」
 多分本人としてはなにを根拠に嫌っているかなんてどうでもいいに違いない。そう列挙するだけでも嫌そうな相手に、同じ問いを別の機会に尋ねればきっと別の特徴を挙げるだろうと哀は確信できた。
 小さく息を吐いて、哀は恐怖に震えている快斗を見やる。
「それで?どうしたの」
 文脈としては少々ずれた問いかけ。しかし快斗は一瞬呆けた視線を向けてから、少し目を細めて笑った。
「哀ちゃんって、分かりやすいね」
「……え?」
 未だかつて聞いたことのない言葉を言われた気がする。
 哀は意表を突かれて快斗に驚愕と、探るような視線を向ける。
「境界が明確ってこと、かな」
「よく、分からないわ」
「優しいね」
「………随分と性質の悪い冗談だこと」
 どんな脈絡で発生した言葉なのかまったく分からない言葉選びに哀は快斗を軽く睨む。日本語のような宇宙語を操る相手はなぜだか嬉しそうに笑って受け流してしまうが。
 ふと、サーバーの紅茶の色がキレイな琥珀色に染まり始めていることに哀が今更気付くと、快斗も同じようにそれに目を向けた。


「新一、さ」


 熱湯の中でくるくると踊る茶葉をテーブルに頬杖をついて眺めながら、いつもと少し違う雰囲気の言葉がぽつり、と落ちる。
「少し嘘が下手になってるんだよ」
 内緒話をするように声のトーンを抑えた、苦笑するようなニュアンスを含んだ声。
「どんなにうまく隠そうとしても本人の意思でどうしようもないとこに症状が出ちゃえば周りにばれるし、そんなになる前に気付けるようになった、って所はちょっと自惚れてもいいかもなんて思ってるけど」
 その顔は苦いものを含まずに笑っている。少なくとも哀には『優しい』と思わせるような笑顔でそれは、だからこそ少し痛い。
「でもやっぱり基本的に騙すの上手いから」
 紅茶の葉っぱの浮き沈み越しに見ていた透明な紅茶色に歪んだ顔を改めて空気越しに見直せば、やっぱりその顔は笑っていた。
「結局、気付かないかも、なんてちょっと自信なくしたり、でさ」
「珍しいわね」
「?」
 唐突に、それまでの快斗の言葉の流れを断ち切るように哀が言葉を挟む。
「貴方がそういうこと、言い出すの」
「そう?」
「ええ。だって貴方の方がよっぽど騙し上手でしょう?」
「えー…傷つくなぁ」
「嫌なら、」
 狙ってタイミングをずらすように哀は快斗を見る。睨むに近い眼で。
「貴方も同じように工藤君に曝け出しなさい。フェアじゃないわ、そんな愚痴」
「まぁね」
 今度こそ困ったように笑って、快斗は紅茶の葉を押し落とした。
「……でも嫌われたくないし?」
「当たり前でしょ」
 即座に返ってきた同意の言葉に、快斗は目を丸くした。


 そして、一瞬にして破顔する。


「やっぱり分かりやすいよ哀ちゃん」
「……そう」
「うわー。強敵だなぁ…まぁ恋路は障害がつき物だもんねー」
 澄まし顔でクッキーに手を伸ばす仮想敵である少女のために、サーバーから白いカップにこぽこぽと紅茶を注ぎながら快斗は真面目な顔で宣戦布告をする。
「…せめてお友達レベル格上げが今のところ目標なんだけどね」
 しかし結局は情けない事を白状して、快斗は次に自分のカップに向かって琥珀色の放物線を描いた。























 薄く膜を張ったような意識と視界を現実に浮上させて、コナンは横たわったまま可能な範囲で周りを見渡した。
 見慣れた部屋は夕方の薄暗さの中に橙色の光のコントラストを差し入れていた。
 その中で、小さく光るライトに気付いて手を伸ばす。
 メタリックシルバーのケータイの端についたライトが着信を示して点滅している。
 履歴を探る前に、手の中のそれが震え始めた。
 表示を見て微かに顔を顰め、コナンは近くにあった変声機を口元に当て、通話ボタンを押した。
「もしもし?」
『あ、もしもし。新一?』
「どうかしたのか?」
『うん…今度の連休に和葉ちゃんがくるから、新一、まだ帰ってないのかな、と思って』
「遠山さん?1人で?」
『んー…服部君も誘ったみたいなんだけど、新一来ないだろうからいいって』
 それもそうだ。服部は蘭の家にコナンが居ない事も、その理由も知っているのだから。
「まだ、帰るのは無理そうなんだ。悪ぃな」
『……うん』
 妙にしおらしい応えに訝るように黙ると、それを察したのか小さな笑い声が聞こえてきた。
『なんかコナン君居なくなってちょっと寂しい…のかな』
「そ…か」
 軽い罪悪感が、胸に痛みを与える。そのことに嘲ってしまいながら、それを悟られないように言葉を次いだ。
「ま、元気にやってるだろ」
『うん。だといいな。……それより新一』
「ん?」
『風邪、ひいてない?声が少し掠れてる』
「あー…いや、ちょっと…」
 寝起きだから、というのもこの時間では憚られるし、だからと言って風邪であることも否定は出来ず。曖昧に言葉を濁すと、蘭はあからさまな溜息を吐いた。
『もー。体調管理くらいしっかりしてよ。ちゃんと安静にしてる?』
「大丈夫だって」
『信用できません』
 いやにきっぱりと言われ、思わず「あのなぁ」と言葉を被せた。
「本当に大丈夫なんだよ」
 なんたって2人がかりで一分の隙もない看病をされているのだ。贅沢な話だ。
『そう…なの?』
 未だ少し疑いの入った声が、どこか驚いたように訊く。
「ああ。……どうかしたのか?」
 トーンの変わった声に気付いて尋ねると、蘭は一瞬黙って、しかしすぐに『なんでもない』と笑って応えた。
『それじゃあ、そろそろ切るね。ゆっくり休むこと!』
「分かってるって」
『じゃあね』
「ああ」
 頷いて、少し待つと通話が切れた。
 電子音を繰り返すケータイの通話終了ボタンを押して、ベッドに変声機と共に放り出す。
 ぼんやりとそれを見つめた後、再び一周させた視線を最後にベッドの脇に向けて、コナンはそこにしばらく目を向けていた。

 なにがあるわけでもない。
 強いて言えば何も無い、空間。

 眠りに落ちる少し前までそこにいたヤツを思い出しそうになって、コナンは目を伏せる。そうすると、やけに部屋の静寂が気になった。

 この静けさこそが日常だった時もあるというのに。

 毛利家に居候していた頃は蘭には煩く世話を焼かれ、小五郎にはなにかとせっつかれ、静けさとは無縁な生活だった。
 そして哀の研究の実験台になってこの家に戻ってきてからは、いつの間にか押しかけていたこそ泥が気付けばそこにいる生活。それは煩さとはまた違うが、空気のような存在はしかし静寂とも言い難く。
 彼が揮った手料理を見ていると時折、幼馴染の前で無理やりに子供のフリをしていたときを思い出して、苦笑が漏れそうになる。


 そして、いつの間にかその状態に慣れてきているから少し厄介だった。


 柔らかに刺さる棘のような。
 いつか独りに戻る時に、自分はこの時間を痛みを伴わずに思い出にすることが出来るのだろうか。
「ばからし…」
 感傷的な思考を風邪のせいにして、階下から漂う甘い匂いに頭痛を覚えつつコナンは布団の奥にもぐりこんだ。























 ノックは4回。反応のないドアの向こうで、微かに気配が動いたのが分かる。
 起こしたかな、と思い多少の申し訳なさを感じつつも起こしてしまったのなら今更遠慮はいらないだろうとも思ってドアをもう一度叩いた。
「おやつにしよう、名探偵」
「……お前灰原のところで食べたんじゃないのか?」
「新一ともお茶したい」
「あ、…そ」
 呆れたようなトーンの声がそう呟いて、ドアが部屋の内側から開いた。
「哀ちゃんのお墨付貰ったから」
 笑ってそう言いながら快斗は少し屈んで手を伸ばした。
 軽く前髪をかきあげて触れた額はまだ微かに熱を持っているのが分かる。
「…辛くはない?」
「無理してまで茶菓子食べに出て来ねーよ」
 お前じゃあるまいし、と続けてコナンは軽く溜息を吐く。
 その言葉に幾度か目を瞬いた快斗は、コナンが下を向いているうちに弱ったような笑みを浮かべた。
「めーたんてー」
「?」
「好きだよ」
「………。お前も風邪か?」
 暗に『熱でとうとう頭がいかれたか』という視線を向ければ、快斗は緩く笑った。
「…うん…そーかもね…」
 色んな意味で、と快斗が呟いた事を知らず、コナンは見当違いな気遣いの言葉を掛けながら甘く香る階下へと少々心許ない足を踏み出した。









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中途半端…。