ロミオとジュリエットのように、愛を確かめてみませんか。
近所でホラーな噂を立てられるに相応しい工藤邸に既に慣れきったピッキングで入ってきた快斗は、一直線に2階の家主の寝室へ向かった。
「しんいちー。昼だよー?」
本来ならば『朝だよー』と言って起こすところだろうが、この家の主人は昼過ぎようが眠い時は寝続ける。贅沢な話だが、その分睡眠自体が数日おきだったりするから気が抜けない。
「あれ?」
見回して、ベッドがもぬけの殻だということに気付く。
「……書斎かな」
部屋に来る前にリビングにいないことは気配で分かった。ならばと彼が長居する場所のひとつ、書斎を覗くがそこにも見当たらない。
風邪を引いてからしばらく外にふらふら出掛けることを控えるように最恐の主治医から言い含められているコナンは、ここのところ大人しかったのだが風邪は2日前に完治したと言っていた。とうとう抜け出したのだろうか。
首を傾げてリビングに戻った快斗は、テーブルにあった白いメモ用紙に気付いた。
重ねて言うが、ただの白いメモ用紙である。
「不自然極まりないけど、多分心配するなってことで…お隣?」
真っ白なその紙を丹念に調べた結果快斗はそう呟いて、今度は工藤邸の隣宅へ向かおうと玄関に戻る。
と、靴を履く前にドアが開いた。
「あ、お帰りー」
「………ただいま」
笑って出迎えた快斗に、釈然としない表情でコナンはそう返した。
「面倒なのは分かるけどさ、せめて一言ぐらい書こうよ。書置き」
「だってお前それで分かるだろ?」
「分かるけど」
「それだと使いまわせるし」
「それも分かるけど」
名探偵からのメッセージならたとえ意味のない一文字でも欲しい、と言えば案の定本気にされなかったのか『資源の無駄だ』と却下された。
「定期健診?」
「………あぁ」
「昼は?」
「まだ」
「じゃあ作るから待ってて」
「………。」
「ちゃんと食べること」
返事はないが、顔を顰めつつ黙ってソファに向かったから待つ気はあるのだろうと解釈する。コナンの姿だからなのかもしれないが、その表情が親に叱られて不貞腐れた子供のように見えてしまって、快斗は気付かれないように忍び笑ってキッチンに立つ。
以前から品揃えの悪すぎる工藤家の冷蔵庫を潤してはいるものの、しばらくして潤した本人がいない限り使われることなく素材がダメになっていくことに気付いた。それが、快斗がこの家に通う理由のひとつだ。
もちろんもっと別の、シタゴコロなんてものが無いとは言えないが。
「なににするかな…なんか食いたいものあるー?」
キッチンから呼びかけても返事が無い。
カウンターから覗けば、新聞のある面を広げたまま何かを考えるように固まったままのコナンがいた。
「……もしもし?」
「……え?あ。」
「何かリクエストは?」
昼食のメニューを訊ねているのだが、なにを間違えたのか「もっと難しいの」と答えが返った。
「昼飯だよ?」
「あ?あぁ…なんでもいい」
何か面白い事件でもあっただろうか、と傍まで寄って覗き込んで、快斗は口元を綻ばせた。
「なんだ。予告状のことか」
「難易度落ちてねーか?」
「だって2課の皆さんなかなか解いてくれないからさ。これだって今日やっと解けたみたいだし」
「ふーん…」
「今回準備がかかりそうだから今日も早めに帰るけど夕飯ちゃんと食べろよ?」
言外に『つまんねーの』と言っているコナンの声にじゃあ今度のは手の込んだのにするかな、などと思いながらキッチンに戻ろうとしたところでコナンは唐突に快斗を振り仰いだ。
「……てことはオメー明日も来ないよな?」
「うん。まぁ…」
犯行日時は明日の夜を示している。それを踏まえてのコナンの問いに当たり前のように頷きかけて、快斗はふと思いついたように揶揄の言葉を口にした。
「俺がいないと寂しい?」
「……………。」
「あれ。なにその冷たい目」
「いや。別に」
コナンが呆れても、快斗はそれにあえて気付かないふりをしてキッチンに戻っていった。
その背に「おめでてーヤツ…」と呟いてコナンはもう一度新聞に視線を落とした。
キッドにしては少し早めの時間を予告した、暗号。
準備を考えれば快斗は日の暮れる頃にはこの家を出て行くだろうことはすぐに予想がついた。
「願ったり叶ったり…か?」
口元だけで小さく苦笑したコナンの言葉は、当然のように快斗の耳に入ることなく空中に掻き消えた。
灰原が狙ったとは考えにくいが、コナンにとってしてみれば好都合だった。
できれば、快斗のいない時にこれは実行したかった。頻繁にやってくる彼をどうやって遠ざけようかとしばらく悩んでいたのだが、こんな形でそれが叶うとは思わなかった。
「別に信用してねーってわけじゃないんだけどな」
誰ともなく呟いた言葉に、自分自身で微かに驚いた。
『信用して』いるはずもなかった相手をいつの間にか当たり前のように信用して、しかも無意識に零れた言い訳のような言葉。なにに後ろめたさを感じていると言うのか。
息を吐いて、冷蔵庫の中にあったミネラルウォーターのボトルを掴む。
ボトルと、カプセルの入った小さなピルケースを持って2階の自室に上がったコナンは扉を背で閉めた。
まずサイドテーブルに持ってきたものを置いて、コナンはクローゼットの中を漁りだした。探し出したのは今の身体には合わない服。
ベッドに座ってサイズの合わないそれをずるずると引きずるように身につけると、テーブルに置いておいたケースからカプセルを取り出す。
口に含まずにしばらく手の上で遊ばせていたコナンは、ふと苦笑してボトルに手を伸ばした。
喉を潤して、少し汗ばんだ手の中のカプセルをゆるゆると口に運ぶ。
たったひとつのカプセルを飲み下すのにこんなに時間をかけるのは後にも先にもないだろう。
むしろ、ないことを祈る。
自嘲気味にそう胸の内で呟いて、ミネラルウォーターで薬を流し込んむ。そしてコナンは広いベッドの中にもぐりこんだ。
じわじわと骨を溶かすような熱と激痛に身体を屈ませたコナンは、荒い息を吐きながら緩慢に意識を手放した。
* * *
「……ハズレか」
月明かりに照らした宝石は、精巧なカットにエメラルドグリーンの光を乱反射させるばかりだ。
充分に美しい輝きだ。ただそれが目的ではないだけで。
「普通の窃盗犯なら喜んでお持ち帰りだよな」
苦笑して、石を丁寧に仕舞いこむ。これを警察に届ければ今日の仕事も無事完了だ。
いまだ見当違いな方向にサーチライトを向ける警察諸君を眺めて、キッドは無線機に手を伸ばす。返しに行く手間が勿体無いのであちらから来てもらうことにしたのだ。
「名探偵がいたらもう使えない手だろうな」
喉の奥で微かに笑って、ひとつ咳をする。声音を整えて無線を繋げた。
「『米花サンプラザホテルの屋上にキッドらしき人影を確認!』」
『なにぃ!?』
「『付近の警官は現場に急行せよ!』」
『キッドかぁ!?また人の声を使いおって〜!!』
額に血管浮かばせて無線機に怒鳴る中森警部が想像できて、キッドは口元に消えぬ笑みを刷いて無線を切った。なんだかんだでここにキッドがいることに気付いてやってくるのだ。今はそれを待つだけだ。
やがてバラバラと音を立てるヘリのサーチライトが近づいてきて、キッドの姿を確認してまた上空へと戻る。警察無線を傍受してみれば中森警部もここへ向かっているのが分かる。
「いつも通りだな。こっちは願ったりだけど」
もっとしっかりしないとダメだって、と人事のように思いながら扉が開くのをじっと待つこと数分。
「今日こそ年貢の納め時だキッドぉー!!!」
「相変わらずですね、中森警部」
思わず笑ってしまいそうになるのを堪えて、キッドは一度仕舞った石を右手に閃かせた。
「これはお返しいたします」
「またか!ってちょっと待てっ」
事も無げに緩いカーブを描いて右手から上に放られた白いハンカチ。
「おっと。これは失礼。では、お返ししましたよ?」
時価数億の石が包まれているのだと思って慌てる中森警部がそれに気を取られているうちに、キッドは煙幕を張って警官隊の中に紛れ込む。その時に、投げはせずに手の中に持っていた石をこっそりと中森警部のポケットに忍ばせる。
煙が拡散して、視界が戻る頃にはキッドは完全に警官隊の中に紛れて、まるで忽然といなくなったかのように円の中にはぽっかりとキッドのいた空間だけが穴が空いたように残る。
「くっそー!!まだこの辺りにいるはずだ!探せ!!」
「はっ!」
中森警部の怒号に敬礼を返して散っていく警官と共に外に流れたキッドは適当な所まで走ると、人目がないことを確認して快斗に戻った。
「毎度の事ながら、騙されやすいよなー、中森警部」
今頃ポケットの中身に気付いて歯軋りしているかもしれない。
個人的には多大な厚意を受けてきた身だ。出来れば血圧を無駄に上げる様な真似はしたくはないのだが、彼はこれを生きがいにしているところがあるから、現場で手を抜くなんて出来ない。時々ぎょっとするような手法を取ってくる時だってあるから気が抜けないのは確かだ。
しかし。今日はどうにもキッドの調子が良すぎたのか、予想を上回る速さで仕事が片付いてしまった。
携帯電話をとりだして、連絡を待っていた唯一の共犯者に仕事の成功を告げてしまえば、今日のキッドの仕事は完全に終わりだ。
「まだ起きてるかな…」
思い浮かべた相手に苦笑する。
入り浸るようになってから、この姿ではしばらく会っていない。
もちろん、この姿で行っても歓迎されないのは目に見えているが。
「とりあえずは快斗で行くか」
工藤邸で着替えてもいいし。こういうのも楽しそうだ。
パトカーの向かう先とは逆方向へ。警官の姿からいつもの普段着に早変わりした快斗は鼻歌でも歌いだしそうな上機嫌で夜の街へと足を踏み出した。
遠目に見た新一の部屋に薄い明かりが灯っている。
それを見つけた快斗は、音もなくその部屋のベランダに降り立った。
外見は快斗のまま。ただし中身はキッドだ。
こんな状態を見てきっと名探偵は呆れるのかもしれないが、それでもいい。ただその感情の表現も含めて彼といる時間、そのプロセスが大切なのであって。
「重症だな」
独りごちて、快斗は窓に手をかけた。案の定、錠のかかっていないそれは簡単に開いて、淡色のカーテンをささやかな夜風にそよがせた。
「お邪魔します」
律儀に告げた言葉に、反応はなかった。
「名探偵…?」
探るように呼んでも、やはり応えはない。
訝しげにサイドライトの照らすベッドに近づけば、目を伏せて動かない相手を見つけて、落胆する。
「ライトつけっ放しでご就寝…」
しかもいつの間にかコナンから新一に戻っている。彼は、自分がいないうちに薬を飲むことが多い。確かに見られて嬉しい現場ではないだろうが、それが少し寂しかった。
「俺にはまだ入れない領域、か」
自分自身にも覚えのあるそのテリトリーに自分だってまだ相手を許容できていないのに、相手には『入れて欲しい』と求めるなんて、我儘もいいところだ。
哀の厳しい瞳を思い出して苦笑した快斗は、眠る相手の頬を軽く撫でた。
いや、撫でようと触れたところで、その手は不自然に固まった。
ひんやりとした肌。
一瞬で強張った手を動かしても、それはまるで絹の布地に触れたよう。
震える指で滑るように首筋へ触れても、確かな感覚を得られない。
"生きた"感触がしない。
「……嘘、だろ……オイ」
不自然に震えた声を、抑えることも出来ない。
気付けば、暖色のライトに照らされたその顔色が、いつもに増して白く見えた。
それを認めたくなくて、快斗は手を伸ばし再び新一に触れた。
冷えた肌の感触も、気付かぬ振りをしたかった。
「新一…新一…?」
肩を微かに揺さぶっても反応はない。出来すぎた人形だと言ってくれたらどんなにか救われるのに。
「…新一…っ!」
自分の体温まで何かに奪われるかのように血の気が頭から足へと落ちてどこかへ流れていくようだった。
いっそ、それで何かが変わるのなら、それでもいい気がした。
「勝手に思いつめて馬鹿な真似しないで頂戴」
室温以上に冷えた声音に、弾かれたように快斗は顔を上げた。
「モンタギューの馬鹿息子の愚行に倣って貴方の愛の深さを彼に知らしめたいっていうのなら別だけど?」
少女の瞳を見て、快斗はやっと我に返った。
具体的なことなんてなにも言っていないというのに、哀はまるで快斗の心のうちを読んだような言葉を確実に選んで突き刺してきたのだ。
「……そんなことしたら嫌われる」
「理解が早くて助かるわ」
決して優しい意味ではない笑みを浮かべた哀は、快斗の手を外して新一の頚動脈を確め、心臓へ手を当てる。
そして微かに息を吐いて、快斗を睨んだ。
「下手に動かさないで。何がどう作用するか分からないのよ」
「どう、いうこと?」
「中度の低体温症。外部刺激が引き金で心臓が止まることもあるわ」
哀の言葉に快斗は微かに息を呑んだ。
知識がないわけではない。むしろ、知識があるからこそだ。
「そんな…どうして処置しない!?」
体温が急激に低下する低体温症は、重度になれば仮死状態に陥り、行過ぎれば確実に死に至る。中度でも心拍数は格段に落ち、呼吸も酷く緩やかなものになる。放置すれば症状が進むばかりだ。
「これが普通の症状ならね。でもこれは副作用…いえ、効能と言った方が正しいかしら」
「っ…死にかけてるだろ!」
「細胞の定着のためよ」
僅かにずれた答え。それでも快斗は瞬時に理解した。
つまり、完成品を服用したということ。
俯いて言葉を切った快斗を哀はじっと待っていた。
沈黙は長く、お互いにその重さに耐えるのが苦しくなる。結局先に口を切ったのも快斗だった。
「いつ、飲んだ?」
「昨日の夜。体温が下がりだしたのが今日の午後」
「……いつまで持つ?」
「長くて明日の朝ね」
「可能性は…?」
「半分、あればいいわ。体温が戻れば成功。戻らなければ…」
淡々と告げる哀も、その先は口にしなかった。
「…なかったら…」
掠れた声。
「戻ら、なかったら…」
喘ぐように呟いて、快斗は苦しそうに瞼を閉じた。
強張った口元を隠すように手を当てても、その手が小刻みに震えているのは気のせいではないだろう。
そんな快斗を見上げて、それでも哀は瞳を揺るがせることはしなかった。
それだけが、彼らに向けて出来る精一杯の誠意の証明だと思うから。
次に彼が口を開いた時に出てくる言葉がどんなものであれ、揺るがず聞く覚悟はできていた。
再び落ちかけた沈黙に、一度なにかを探すように視線を逸らした哀はふと顔を上げた快斗に気付いて同じように顔を上げた。
そして、言葉を失った。
「でも…止めたって聞かなかっただろうし」
「黒、羽君…」
「ホント、勝手だな」
「………。」
笑って、いた。
もっとどうしようもなく責め立てられるのだと、覚悟をしていたのに。
そんな覚悟すらすり抜けて。
呆然と見上げる哀に快斗は苦く、笑う。
まるでこちらの気持ちは分かってると言いたげに。
「例えばだけど」
哀から顔を背けながら、独り言のように快斗は話し出す。
「ジュリエットにさ、仮死状態になる薬を渡した彼を、誰も責めはしなかったよ」
神に仕える聖職者。彼の罪がいかほどだとしても、彼を責めるものはなく。
「それは、証人である2人が死んでしまったからでしょう?」
「違うよ。薬を飲んだのも、短剣を突き立てたのも彼らだ」
「その状況を消極的にでも作り出してしまった罪は?」
「殺人幇助?確かに罪だね。…でも」
微かに光を宿す瞳。そこには少し前の、絶望なんて映っていなかった。
「死ななきゃ、いいんだ」
痛いくらいの望みをのせて、言葉は紡がれた。
「どちらにしても、誰も彼を責めない。彼自身を除いて、誰も」
「それは…」
責めているのか、許しているのか分からない。
誰も責めない。でも自身を苛む罪悪感を彼は決して否定してはくれない。
それは哀へのではなく、きっと自身への言葉を含んでいるからで。
すくわれない、想いがあるから。
「……それは、」
続く言葉を告げられずに絶句した哀にそれ以上はなにも言わず、快斗はベットサイドにひとつ椅子を引きずってきた。
そして静かにそこに腰を据える。
「一晩、待つよ」
「黒羽君」
「少なくとも俺はロミオじゃないし、こいつもキュピレットのお嬢様じゃない」
まっすぐに血の気のない顔を見つめたまま、快斗は微かに笑った、ように見えた。
「工藤新一だよ」