幾ら焦がれても手を伸ばしても届かない、君にひどく似ていた。
何もかもの機能が低下していた。
もしもフリーズしてるパソコンに感覚なんてものがあったら、今の自分のような気分だろう。なんとも気怠く、なにかをしたいのに身体は動かない。そもそも明確な意思すら確立できないで動きようもないが。
薄く部屋を照らすのが朝日だと分かったのは、経験的な直感。思考能力を伴わない、いわば反射的な習慣のようなものだった。
首を傾けて、力なく伸びた手を見つめる。なんとなく思ったのは『自分の手だな』ということ。確認でもなく、再認でもなく、ただ浮かぶことはそのぐらいだった。
やがて凍えて萎縮していた脳がやっと働き出したのか、目に映る視界の情報が読み取れてきた。
何度か瞬きを繰り返して、自分が見た手とは反対の手を見る。そこに自分のものと、もうひとつ手が伸びているのを発見して、視線でその手の元を辿った。
「……なんでいるんだ?」
問うと、相手は笑った。
それはどこか力がなくて、もっと言うなら疲労困憊状態で表情筋が意思に反して緩んでしまったと言っても信じられるような表情だった。
「なんでだろうねー、ホント。なんでだと思う?」
逆に訊かれて、眉間に皺を寄せる。訊かれたところで分かるはずがないだろうと言いたいところだったが、そう言うのはなんとなく癪に障った。
なんで―――なんで?
疑問を内側に投げかけた瞬間、不意に湧き出した記憶に気付いて、慌てて上半身を起こした。
だがまだ血液が回りきらないのか栄養の絶対量が足らないのか、急激な体勢の変化に警告のように目の前がブラックアウトする。
即座に横から伸びてきた手を敢えて無視して、無理矢理声を搾り出した。
「…っ灰ば…ら、は?」
「さっききた。とりあえず異常はないから、起きたらまた来るって」
「そ、か…」
ひとつ安堵の息を吐いて、身体を曲げてベッドの上で縮こまる。
血が巡らない身体は冷えていて、気を抜くとベッドからさえ転がり落ちそうだからこの体勢でいるのが1番安定していた。
だというのに隣りで困ったように様子を窺っている気配がそれを邪魔する。
「辛い?」
「……ちょっとほっとけ」
「無理」
即答。その早すぎる答えが頭にきて、のろのろと顔を上げる。
だが睨みつける予定の顔は、思いの外真剣な表情で。
「どうした?」
目を瞬いて訊ねると、あからさまな溜息。
「……言いたいことがあるならさっさと言え」
「なんでもない」
返ってきたのは平坦な声。ふ、と表情を失くした顔に驚く間もなく相手の両手が挟むように頬に触れる。
なされるがままに顔を上向けると、そのまま顔が近づいてきた。
こつ。
熱を測るように額に額をぶつけて、相手はもう一度息を吐いた。
「……おかえり、新一」
吐息に混じり呟かれた言葉。
そして離れる手。
冷えた頬に残された体温に、新一は同じように冷えた指を這わせ、再び首を傾げた。
後ろ手に閉じたドアに背を預けて、ずるずると座り込む。
上を向いて、落ち着けたはずの呼吸をまた整えて。
「ホント…酷ぇ…」
一時も放したくない、その気持ちとは裏腹に傍にいることが出来なかった。
どれだけの意地を張ってポーカーフェイスを保って。
信じた気持ちに偽りはなくとも、それでもこみ上げる恐怖にも嘘はなく。
「あぁ…哀ちゃん呼んでこないと…」
誤魔化すように吐いた言葉に『情けねー』と苦笑して。
快斗は力の入らない足で立ち上がった。
* * *
「なー灰原ぁ…」
「ダメ」
「………いや、」
「ダメ」
「まだなにも言ってねーって」
「ケータイは渡せないわ。読書は却下。外に出るなんて以ての外。」
「……………。」
「それを踏まえた上で、何か言うことは?」
「………退屈」
ささやかな主張はあっけなく黙殺された。
横でこれ見よがしにファッション誌に目を落とす相手には絶対に目線を合わせない。それでなくても醸し出す空気が威圧的なのだ。君子危うきに近寄らず。謎がない危険なんて身を賭してまで近づくものじゃない。
しかし固定されたようにベッドの上で仰向いて見慣れた天井ばかりを真剣に見つめるのはいい加減厭きた。
彼女に言われた、最低限の生活以外の行動却下という厳命の有効期間は1週間。今日でまだ2日目。1日だってよく持ったと自分に言ってやりたい。
恨めしげに点滴に繋がれた腕を見つめていた新一に、哀が小さな溜息をついた。
「そんな身体でなにをしようって言うの?」
「本読むくらいいいだろ?」
「そうね。10分なら許してもいいけど。貴方が本当に10分で本を手放せるのなら」
即答で確約出来ない自分が恨めしい。
一瞬言葉に詰まってしまった。そして聡い少女にはその一瞬で十分だっただろう。
もう言葉を聞く仏心も出してくれそうにもない相手に、新一は本日何度目かの嘆息を天井へ向けて吐き出した。
その溜息に被るようにノックが響いて、新一は首だけでドアを顧みた。
「どうぞ」
雑誌から顔も上げずに応えた哀に、新一はこの部屋は誰のものだと思わないでもなかったが口にはしない。
「あ、新一起きてるんだ」
「1時間前くらいからな」
「昼、どうしようかと思ったんだけど…哀ちゃん?」
問いを向けられて、哀はやっと顔を上げた。
「工藤君はまだ。今のそれが終わったら点滴はもう外してもいいけど」
「じゃあ夜は食えそう?」
「量は無理だけど、少し用意してあげて」
「了解」
笑ってドアを閉めた快斗に、哀も小さく笑った。
「ホント、貴方達のおかげで臨床にも大分明るくなったわ」
皮肉である。ここで「良かったな」なんて言った日には命が無さそうだ。
逃げるように視線を彷徨わせて、ふとその目が壁にかかったものを捉えた。
「今日は日曜…だっけ?」
薄く埃をかぶったカレンダーに目を留めて問う新一に、哀は頷いた。
「おかげで学校ずる休みせずに済んだわ」
平日だったら休んでまで監視、もとい看病するつもりだったのかと思うと、哀にはとことん頭が上がらなくなる。
そんなことを考えながら、新一はしばらくそのカレンダーをぼんやりと見つめ続けていた。
点滴を外して、哀が隣家へ帰っていたのは夕方だった。
快斗は病人食を作るためにキッチンに篭っている。
「……行くか」
小さく呟いて、新一はベッドから起き上がった。
長く寝ていたせいで容赦なく弱った筋肉と下がりっぱなしの血糖値のせいか足元が覚束ないが、そのうち慣れるだろうとクローゼットからシャツとジーパンを引っ張り出す。
椅子に時々頼りながら着替えを終えた新一は、どう家から出るかと考える。
気配に聡い快斗を騙して出て行くなんて、この弱った身体では無理だろう。
いっそ真正面から当たって砕けるか。
砕けるつもりなど微塵もないが、新一はひとつ頷いてドアを開けた。
階段を危なげな足取りで、しかし足音ひとつ立てずに降りきる。あとは数メートル先の玄関で靴を履いて出て行くのみである。
光の漏れるダイニングの方を気にしないようにしながら忍び足で辿り着いた玄関に座り込み、自分の靴に片足を入れたところで、リビングのドアが開く音がした。
「し、ん、い、ち、くーん?どこ行くのかなー?」
ちょっとお兄さんに教えてくれないかなー、とまるでコナンに言うような声で妙に楽しそうに訊ねられている間にもう片方の靴を履く。
怒ってるんだろうな、と分かりきったことを思いながら振り向くと、案の定恐いくらいの笑顔を顔に貼り付けた快斗が新一を見下ろしていた。
「………ちょっとそこまで散…」
「却下」
「………。」
皆まで言わせず。口実はばっさりと切り捨てられた。
「今の自分の状態ちゃんと分かってんのか?」
笑顔が消えて、真剣な表情が自分の顔を見つめている。
その表情に微かな既視感を覚えて、新一は目を瞬いた。
あれは自分が組織の大元を叩いた時だ。薬のデータを警察に知られないうちに取って消去するために、指揮系統を一時預けて動いた時。そして、その後動けなくなった時。
あの時出なかった声を、今は出す事が出来る。
「分かってるよ。ちゃんと」
目を逸らさずに笑ってそう告げれば、快斗は驚いたようにまじまじと新一を見た。
「止めんなら、殴ってでも昏倒させてくれ」
「……どこ行くつもりだよ」
嫌に晴れやかな顔で新一が言うからか、快斗は眉間に皺を寄せて訊ねた。
「近くの電話ボックス」
「……家の電話使えば?」
「番号通知でこの家にいるってばれたら乗り込んできかねないだろ?」
「誰が?」
「蘭が」
簡潔に述べると、快斗が黙り込んだ。
いい加減見下ろされているのが癪に障って、新一は無理矢理足腰に力を入れて立ち上がる。それでも玄関と廊下の段差の分相手に見下ろされていることに変わりは無いが、顔の高さは随分近づいた。距離は逆に広がったが。
「……なんで?」
なぜかその声は拗ねているように聞こえた。それに笑いそうになりながら、新一は包み隠さず答えを口にすることにした。
「今日が誕生日だから」
「……蘭ちゃんの?」
「そ」
「だから…って」
「そう距離があるわけでもないんだ。大丈夫」
根拠はないが、数歩歩いただけで倒れるなんて無様な状態ではない。ちょっとばかり体力消費が激しいだけで。
じっと視線を外さずにお互いしばらく沈黙の押し問答を繰り広げていたが、やがて折れたのは快斗の方だった。右手を翻し、その手にケータイを出現させる。
「俺のケータイ。なんかあったらすぐに家に電話すること」
「電話ボックスにすら辿り着けないと」
「もしもの保険。俺の安心の為だと思って持ってってよ」
本当はこのケータイでこの場でかければ済む事なのだろうけど、それは嫌だったし、快斗もそれを分かっているようだ。
最大限の譲歩なのだろう事を悟って、新一は苦笑った。
「……分かった」
手を伸ばすと、掌に落とすようにケータイを渡される。それを無造作にポケットにねじ込んで、新一は踵を返した。
だがドアに手をかけたところで、快斗の手が掠めるように後ろ髪に触れたことに気付いて首をねじる。
「どうかしたか?」
「……ん」
首を横に振って、既に手を引いていた快斗は、微かに笑った。
「俺がどんな気持ちで待ってるかちょっとは察して欲しいな」
「心配すんなよ」
しつこいくらいに心配性な相手に新一が苦笑すると、快斗は似たような笑みを浮かべて何かを小さく呟いた。
「………だ」
「?…なんだ?」
「…なんでもない。いってらっしゃい」
中途半端に宙に浮いていた手を振って、快斗は新一を送り出した。
きい、と音を立てて電話ボックスの扉を押し開く。
コナンの頃は懸命に背伸びしていた電話もボタンも、今は簡単に手が届く。
受話器を持ち上げカードを差込み、押し慣れてしまった番号を手早く押した。
1回、2回と繰り返すコール音。これで出なかったら、留守電にでも入れておけばいいかと思いながら。
わざわざ弱った身体を押してまでこんなことをするのは、蘭のためではないのだ。
『だから…って』と納得のいかない表情で呟いた相手を思い出す。
「誕生日だからなんかじゃないんだ」
それはひとつのきっかけに過ぎず。
ただ、一刻も早く自分が"工藤新一"に戻っていることを実感したかった。
なにも関係のない誰かに。騙していた相手に。もう偽りではなく、ここにいることを自分が判りたかった。
そしてもう、いい加減けりをつけなければいけないのだ。色々な事に。
酷い話だ、と気持ちを下降させた新一の耳元。6回目のコールで、ぷつ、と回線が繋がる音がした。
『っもしもし?』
少し焦ったような声が耳に響く。公衆電話表示でかけてくる相手なんてそうそういないか、と苦笑して新一はボックスの壁に寄りかかった。
「よー蘭。久しぶり」
『……新一?』
「そ。悪ぃな。プレゼント用意できなかった」
『嘘。覚えてたの?』
「まぁ…偶然思い出したっつーか…」
『自分の誕生日だって忘れてるんだもん。絶対忘れてると思った』
毎年言われていることだ。本当に忘れていた時もある。その時は謝り倒したあげく、買い物に一日付き合わされた。
過去の思い出に少しだけ笑って、新一はとりあえずお決まりの言葉を口にした。
「誕生日おめでとう」
『…ありがとう』
受話器の向こうで同じように笑いを含む声。
それに微かに安堵した新一が次の言葉を探す前に、蘭が言葉を継いでいた。
『新一』
「ん?」
『何かあった?』
特に訝るような音は持たずただ優しい声に、一瞬新一は言葉を呑んだ。
『やっぱり…そうでしょう?』
「……あぁ」
何で分かるんだ、と問いたい気もしたが、その質問は今更だろう。
頷いたきり紡ぐ言葉を探し当てられずに黙っていると、また先に蘭が別の事を訊いてきた。
『ね、まだ帰ってこれないの?』
何度も聞いた問いかけ。
「………うん。いや…」
どちらにしてもまともな答えが出せない自分に舌打ちしそうになる。そうやって今まであやふやにしてきたのを悔いてここにいるはずなのに。
ごつ、と電話ボックスの硬い壁に拳をぶつけて、新一は口を開いた。
「いや。出来ることはやり終えた…と思う」
あとは。
あとは一言、『帰るよ』とさえ言えばいいのに。
『新一…』
名を呼んで、そのまま言葉を続け損ねたような空気。それは大概、言い辛いことを新一に悟って欲しい時の蘭の癖だった。
「なんだ?」
敢えてそれを尋ねると、蘭が困ったように一度言葉を濁した。
だが、すぐに決意の息が聞こえる。
『新一は、もう本当は、』
「…うん」
『私が待ってなくてもいい?』
急いで言ってしまわないと言葉がなくなってしまいそうだというように、蘭は一度躊躇った言葉を一息で告げた。
『なんとなく、だけど…』
フェードアウトするように途切れた言葉を聞きながら、新一は応えを返せなかった。
本当は。
本当は、少し前に気付いていたのだ。
それを見ないフリをしてしまいそうになった。
そうしないために。
だからこそ、今。
「俺は、蘭が好きだよ」
少しだけ、声が震えた気がした。
それを無視して受話器に耳を傾けると、蘭が一度息を呑んだのが分かる。
『…そっか…』
うん、とひとつ頷いて、蘭が笑った気がした。
『私も好きだよ』
どこか絶望のような気持ちでその言葉を聞く。
好意を伝えて、相手にも「好きだ」と言われたら、それはとても喜ばしいことではないか。
喜ばしいこと、のはずだ。
なのにそれによって齎されたのは、ようやく理解した誤りだった。
『ねぇ新一』
「……なんだ?」
『本当に私は新一のことが好きだったよ』
優しさに溢れたそれは、聞いているだけで涙が出そうだった。
それを懸命に堪えて、新一は喉から声を絞り出した。
「俺も、蘭が、好きだった。好きだ……今でも」
『うん。私も。大丈夫、分かってるよ?』
「俺も……分かった」
拙い心で、それでも真剣に好きだったはずなのに。
それを壊して、塗り替えるような真似をしてしまったのは他ならぬ自分だった。
「悪い…今更、今まで」
『ううん。私も、ゴメンね』
そう言う声は、少し語尾が震えていて。彼女も自分と同じ気持ちなのかもしれないということに苦笑が漏れる。
「じゃあ、な」
『うん……ばいばい』
ぷつり、と切れた通話。
カタチを変えた想いは、しっくりと胸にはまってしまって、今更どう取り違えることも出来ない。
好きだよ。
キレイな輪郭など保てなくなってしまっていたけれど。
でもそれはもう、友情でも、恋情でもなくて。もっと、優しいカタチで。
手から滑り落ちるように戻された受話器が抗議するように音を立てた。
「これも失恋っつーのかな……」
思わず零れた呟きに自嘲が漏れる。
失った物に焦がれてももう届かないのだと、自分の手で遠ざけたものの温かさを確めるように片手を握った。