君がくれるなら他の誰からも与えてもらわなくていいのに。
泣きそうだった。
自分を落ち着けるためにと作ったカフェオレの湯気が目に沁みる。
「死にそう…」
思った以上に情けない声が出て、本当に泣いてしまおうかと意地や自尊心を投げ出した考えが過ぎる。
知っていたのに。
新一が、どれだけ幼馴染の少女を大切にしているかなんて知っていたはずなのに。
傍にいる事で焦がれる思いを緩和させているつもりで、結局深みに嵌って出られなくなっているだけじゃないか。
ずるずるとコーヒー風味のミルクに近い液体を啜りながら、ソファに身を沈める。
「誕生日だからっていうか…蘭ちゃん安心させるためだよなー…お優しい事で」
口に出してから、僻みに他ならない言葉に自己嫌悪する。
傍にいるだけで幸せ、なんて言っていられるような控えめな性格はしていないのだ。だからといって相手を傷つけてまで想いを告げたいわけじゃない。なまじ新一に嫌われてはいないと分かってしまう快斗だからこそ、踏み出せない一歩がある。
重い気持ちを全て吐き出すように息を吐く。長い長い溜息が手にしたカップの中の水面を揺らす。
――― らしくもない。
「やめた」
不安定な心情のようにゆらゆら揺れるカップの中身を飲み込んで、時計を見つつ立ち上がる。不毛に落ち込むよりは、夕飯の支度をした方が断然有意義である。
そうして、ふと再び快斗が時計を確めた時だった。
こつり、と快斗のすぐ傍らの窓が小さく音を立てた。
「迷子の迷子のめーたんてー、あなたのお家はどこですか?」
「……………。」
上から降ってきた声に、新一は脱力感を覚えながら顔を上げた。
パーカーのポケットに手を突っ込んで、ベンチに座る新一を見下ろす快斗の表情は背後に灯る外灯の明かりでついた陰影のせいか少し奇妙に見えた。
「元気?」
すっとぼけか。
明るい声で尋ねながらはぐらかすように笑う快斗から新一は少し視線をずらした。
「わりぃ」
思わず零した言葉に、快斗は意外だと言いたげな表情を見せた。
「……なんだよ」
「えーと、さ。新一はなんで謝ってんの?」
「なんでって…」
「新一は自分が『悪い』と思わない限り謝罪の言葉なんて口にしないと思うんだけどさ」
快斗の口ぶりだとなんだか自分がとても俺様な人間に聞こえるのだが気のせいだろうか、と思い実際自分が少々扱いづらい性格をしている事を棚に上げて新一は顔を顰めた。
そんな新一の内心の動きを知っているかのように快斗が微苦笑を浮かべる。
「『心配かけてごめんなさい』は聞くけど『我儘言ってごめんなさい』なら聞かない」
ていうか、心配した事ぐらい気付いてるよな?
尋ねながら、快斗は音を立てて新一の隣りに腰を下ろす。
「………。」
「あぁあとついでに『待たせてゴメン』ってのも聞くけど?」
新一がなんと返すべきかを考えている間に、茶化すように快斗が告げる。
早く帰ろう、とは言わず。
いくらでも待つよ、とでも言うように。
その、多分優しさといって然るべき言葉に、しかし新一は僅かに顔を顰めた。
「……ムカツク」
人が余裕のない時によりにもよって。
「弱みは付け込まないとね」
あっさりと非道な本音を漏らした快斗を軽く睨む。
だが睨まれた快斗はただそれに、苦いような、甘いような、不思議な笑みを浮かべた。
似合わない、とまでは言わないものの、相手のそんな表情には見覚えがなかった。
「………?」
何かを感じ取った新一の訝りを置いて、快斗は口を開いた。
「好きだよ」
一言。
まるで知らない言葉を聞いたみたいだった。さっき同じ言葉を別の口から、自分の口から、聞いたはずなのに。それどころか同じ言葉を、同じ口から、何度も聞いたはずなのに。だけどそれは、過去のどれとも違うように聞こえてしまった。
掴み損ねた言葉を解析しようと新一の有能な頭がフル回転しているうちに、快斗の視線は新一から逸れて空を仰ぐ。
「新一が、蘭ちゃんのこと大事にしてるのとかも分かってるし、そもそも新一は俺の事どうとも思ってないの知ってるけど」
なんでもない事のように並べた言葉の途中で快斗が小さく溜息を吐く。
それでもまだ、新一は相手が何を言い出したのかいまいち理解していなかった。
「けどさ、多分新一は"コナン"の事を蘭ちゃんに話せなくて、話せないから…それが負い目になって、きっと彼女の所に真っ直ぐ帰るなんて出来ないだろうってさ…」
夜色に染まった空を見上げていた顔が、少しずつ俯く。その横顔を見ていると快斗の瞳の色がその空の色に染まってしまったかのように見えた。深い深い、濃い蒼。果たして彼の瞳はこんな色だっただろうか。
「…そこまで推測しておいて、冗談抜きで弱みに付け込むみたいなタイミングでちょっと申し訳ないなぁとは思うんだけど」
組んだ手が口元を隠すけれど、多分その唇は少し歪んで笑っているのだろう。
頭は良い癖に、変な所で拘る。考えてみれば新一の方がよっぽど行動の手段を選ばないタイプなのだ。その程度の事に怒り狂うとでも思われているのだろうか。
「お前馬鹿だろ」
「……ま、今は否定しないけど?」
馬鹿じゃねーの。
胸の内で確定的に非難してから、新一は溜息をひとつ吐き出した。
「言っておくが俺はお前なんかに付け込まれるような隙なんてないからな」
尊大に言い放てば、ようやく相手がこちらを見た。
「ホントに?」
「ったりめーだろ」
とりあえず今は、色々と見なかったことにした。僅かに覚えた動揺とか、困惑とか、そんな心の揺れなど見せるわけにはいかない。相手が得意のポーカーフェイスを見習って、新一は不敵に微笑んで見せた。
弱みなんて見せてたまるかましてや付け込むなんて。
そんな事お前にだって出来ないんだ、と。
謂わばそれは親切心で。そう言ってみせた方がいいのだろうと新一は悟っていた。
「そっか…そーだよなぁ…名探偵がそんな簡単に落ちるわけもないか」
あーあ、と残念そうな声を零す相手を冷ややかに睥睨して新一は根が生えたように居座り続けていたベンチからようやく立ち上がった。
まだやや安定しない足元だったが、歩けない程ではない。
快斗のややこしい告白のせいで、自分が落ち込んでいた理由なんてとうに掌から零れてしまっていたし、これ以上ここにいても一利も無さそうだ。
「帰る」
「『帰ろう』じゃないの?」
「誰がお前なんて誘うか」
「酷いなぁ。健気に夕飯作ってお迎えに来たのに」
同じように快斗もベンチからゆるりと立ち上がって、のろのろしたペースの新一を急かしも追い抜きもせずにのんびりと付いて来る。
決して『付いて来るな』とは言わないあたりが一応の優しさだろう、とお互いに口には出さずに頷いた。
何食わぬ顔で夕食を共にし。
次の日に新一の元に残ったのは一枚のメモ書きだった。
『長期出張してきます。』
「…泥棒が探偵にスケジュール宣言か?」
色々な単語を抜かして簡潔に書かれた紙を置かれていたテーブルに戻して、新一は今日ひとつ目の溜息を吐いた。
せめて暗号にしていけば暇潰しになったのに、とやや理不尽な落胆をしつつキッチンに行けば『食え』とでも言うようにこれ見よがしに鍋に雑炊が作られてあった。
「………俺にとってのお前って何」
思わず呟く。
以前問いかけられた言葉の答えはまだ訊かれない。
昨夜告げられた言葉すら、答えを求めるものではなかった。
何もかもを有耶無耶にされたような中途半端な蟠りがないとは言えないのだが、何故だか逼迫した感情が湧いてこないと他人事のように思う。
新一はとりあえず雑炊を火にかけた。