貴方を想って流す涙はもう終わり、これからは自分のために。
マントが風に晒されてばたばたとはためく音も、ヘリの煩い旋回音も、何ひとつ聞こえなくなる。視覚に入るただひとつの色以外、感覚が何もかもを放り出したようだ。
目の中に零れ落ちそうな、紅い紅い、色。
柔らかな乳白色の月の光を屈折させて、魅せる様に輝く様に刹那言葉を失った。
もう何度目か分からないいつもの確認作業。
皮肉のような笑みを形作る口元が、戦慄いた。
「………パンドラ」
全てを与える者の名を抱いた石。この掌に納まる程度のこの石を求めて。
求めて。
「ようやく会えたな…My fair lady?」
呟く言葉とは裏腹に物騒な笑みを浮かべて、キッドは石に口付けた。
後ろで騒いでいるお馴染みの方々に見せ付けるように。
「こんな遠いところまでご苦労様です、警部」
いつものように声を荒げて意気揚々とこちらを指差す中森警部に、こちらもいつものような軽い口調のまま腰を折る。
しかしいつもならそのまま続く、無駄なお喋りをするつもりはもうない。
「残念ですが警部、今宵で貴方との追いかけっこもお終いです」
「なにぃ!?」
「もう2度とお目にはかかりません。私も、この石も」
揶揄の笑いではなく、心底晴れやかに笑ってしまいそうだった。
「キッド…!?」
「それでは皆様、」
アンコールにはお応えできません事、ご承知下さい。
最後までショーマンシップに乗っ取って。キッドの舞台がこれでようやく幕を閉じる。
あの日、新一を迎えに行ったあの日の夜にはまだ見えなかった終幕を。
カタ、と小さな音を立てて窓が開く。
それに気付いているだろうに、新一はまるで無反応を決め込んでいた。
苦笑めいた形になっているだろう今の表情が、閉めようと手をかけた窓のガラスに写る。僅かに屈折したそれは思った通りに穏やかなものだった。
「………こんばんは」
静かなそれに、応えはない。
元々応答など期待してはいない。快斗は気にする様子もなく新一がいるベッドの端に腰掛けた。
スプリングが僅かに軋んで音を立てると、ようやく新一は読んでいた本から少しだけ目線を動かした。
「何の用だよ泥棒」
「違うよ」
「窓から不法侵入して来た時点でただのオトモダチじゃねーだろ」
冷ややかな言葉にそれもそうだと頷く。
あっさりとしたそれに、もう少し快斗が無駄な屁理屈でも捏ねると思っていたのか新一は意外そうに快斗を見た。
「……?お前、」
快斗の様子のおかしさに気付いたのか、新一が何かを言おうとしたが快斗は敢えてそれを遮った。
遮って、少し微笑った。
「怪盗キッドならもういない」
ある意味唐突な快斗の言葉に、新一は真意を問うように眉を寄せた。
「目的を果たした魔術師は、ひとつ罪を犯して消えてしまいましたとさ」
わざとはぐらかすような調子で詠うように。そして快斗は翻した手の中にひとつの宝石を取り出してみせた。
「先代キッドが…親父が求めた、パンドラって石」
「パンドラ?」
「正確にはこの石の中にある、赤いのが。不老不死を与えるって言われてる」
馬鹿馬鹿しい話、と言っているも同然の口調で種を明かす。
こんな、ただ輝く石ひとつ。
与太話ひとつの為に。
「……懺悔か?」
「まさか」
首を振った快斗に、新一はさらに顔を顰めた。
「テメーの迷いを俺に押し付けんな」
「…やっぱり?」
見抜かれた、と快斗は苦く笑った。
そして何かを試すように問いをかけてみる。
「新一、俺を捕まえないの?」
「現行犯逮捕出来なかった時点で俺の負けだ」
「明確な証拠あるけど?」
「『キッドから取り返しました』の一言で終わるのにか?」
答えるのも馬鹿らしくなってきたのか、新一は読み途中の本に視線を戻してしまった。
「贖罪がしたいなら自分で中森警部を説得出来る品持って行けよ」
その通りだ。この件に関わりのなかった新一にそれを求めるのは間違っているのは分かっている。大体にして、そんなモノを求める事は出来ないのだ。
"怪盗キッド"の名において。
その名を継いだ時点で、清廉潔白なんて言葉は捨ててしまった。ただ自分の父が残した物は全てを受け継ぎ成し遂げてみせると自分に誓いを立て、臨んだ。
これで終わりだと、ようやく念願がひとつ叶ったはずなのに、騒ぐ気持ちに押されるように新一を訪ねてしまったのは自分の中に消化し切れぬものが蟠っているからだ。
自分が何を求めているのか分からないままで。
「…俺何がしたいんだろ?」
「テメーの胸に手でも当てて訊いてみろ」
馬鹿正直に胸に手を当てて尋ねてみたが、応えは返らず。
いや、返っていたとしても聞く耳が無いのだろうか。
「…分かんねー…」
「お前ホントに馬鹿だよな、無駄に頭いいくせに」
面倒そうに新一は快斗に一瞥をくれた。
その視線の意味を問う前に新一はページを一枚捲り、まるでそこに書いてある事を読み上げるように言葉を紡ぎだした。
「『悔しい』」
「は?」
「『悲しい』、『寂しい』、『嬉しい』、『困った』、『ようやく』」
視線はまったく上げずに、感情さえ篭らない言葉の羅列。
なのに。
「『終わった』」
そのどれもに、心当たりがありすぎた。
「なに…それ」
幾夜堪えたのかももう忘れた。忘れてしまっていた。
気付けば殺してきた雫が、まるで辻褄を合わせるかのようにどこから沸くのか分からないくらいにいっせいにこみ上げてきたようだった。
慌てて息を止めて、瞬きをしてそれを隠そうとしているのに、相手はまるで気にする素振りもしない癖にあっさりとそんな強がりを看破する。
「泣けば?」
優しさなんて1ミクロンも無さそうな、素っ気無い声。それがどうしてだか酷く涙腺に沁みる。
そんな簡単な一言で突破される自分の忍耐力を哂おうとして失敗した。
「嘘だろ…」
今までどうやって涙を抑えてきたのかが、急に分からなくなった。
「……っく……」
一度、しゃくりあげてしまえば後から後から溢れる雫は留まることを知らない。
歪んでどうしようもない顔になにを言うこともなく傍らで無関心に本を読んでる相手に、無駄とは思いつつ抱きついて罵って礼を言いたい気分だった。
すぐ傍にいる相手が泣き出してからもう随分と時間が立った気がする。
新一はふと気がついて顔を上げた。
「……酷ぇ顔」
仄明かりだけの室内に、ぼんやり浮かび上がる顔。それだけでも、随分と痛々しい泣きっぷりが見て取れた。
手を伸ばして、赤くなった目元をなぞればまだ水滴が残っていて指先を湿らせる。
「冷たい」
指が、と単語を区切るような話し方は泣きすぎて息が整わないせいだろう。妙に子供っぽくて笑える。
「ガキみてぇだな、ホントに」
キッド、と唇だけで呼ぶ。
もう相手がそれではないと解っているから、声には出さずに。
「ひりひり、する」
苦笑しようとしたのか、だけど頬の涙の跡や未だ雫を落としそうな目がやけに傷ついた表情を演出するせいか酷く切ない顔になっている。本人は気付いていないだろうけれど。
新一は小さく息を吐き、快斗をベッドの上に引き倒した。
「っ…しん、いち?」
引きずり出した布団を有無を言わさず快斗に被せ、長時間本を持っていたせいか温度を殆ど失った自分の手を腫れぼったい目の上に翳す。
「寝ろ」
「でも、ここ…」
「いいから寝ろ。疲れてるから頭パンクすんだよ」
このベッドは幸いにもシングルより大分広い。1人増えても大して問題はないだろう。
緩く触れている手の下で、雫がひとつ零れた気がしたけれども気にしない。
「この前の分のお返しだ」
「え」
「弱みに付け込んで、甘やかしてやるよ」
くつくつと喉の奥で笑いながら。
その音が聞こえたのか、快斗は困惑のような抗議のような呻き声を漏らした。
「…うわ…洒落になんないし…!」
「弱み見せたお前が悪ぃんだよ」
本気で悔しそうなその声に気をよくした新一は、促すように一度零れた涙を指で払ってもう一度その瞼に手を当てた。
「オヤスミ」
願わくば良い夢を。
* * *
「あ、おはよー」
学校に向かう前に、と朝早くから新一を訪ねてきた哀は、予想していなかった相手に出迎えられて言葉を失った。
そして更に、その相手の顔を見て完全に絶句した。
「新一まだ寝てるけど。昨夜結構遅くまで本読んでたみたいだし」
「…私は『安静に』と言ったはずなのだけど」
はぁ、と外見に似合わない深い溜息を吐いて哀はようやく調子を取り戻した。
新一が寝ているのなら放課後また来ようと決めて、哀は次に目の前の相手に視点を移した。
「酷い顔ね。冷やしたの?」
一見して判る程に赤く腫れぼったい目と瞼。哀はその理由の察しがついていたからただその症状だけに気を配る。
「昨夜出来なかったから、今気休めに冷やしてたとこ」
そう言われて見れば、快斗の片手には白いタオルが載っていた。薄いタオルの中に冷えた保冷剤が入っているのが透けて見えた。
「哀ちゃんはこれから学校?」
「ええ。貴方は?」
「墓参りに、行こうと思ってるんだけどさ」
誰の、とは訊けなかった。しかし一瞬息を呑んだ哀に気付いたのだろう、快斗は困ったような照れたような苦い笑みを見せた。
「昨日新一に虐められたから俺こんな顔でさ。どうしようかとも思ったんだけど」
「…工藤君に?」
「そう。新一に泣かされたの」
真剣に頷く分だけ信憑性が薄れるが、全てが偽りでもないのだろうことは分かる。
「…それで?」
「うん、もうこうなったら無様でも何でもいいから墓前で泣き喚いてこようかな、と」
軽い口調、明るい声、晴れやかな顔で。
だから兎みたいな目の痛々しさとか、少し引きずるように震えた喉は気付かない振りをする事にした。
「今日だけ、許して、涙枯らしてくる。そしたら、情けなく泣くのは終わりにしようと思って」
情けなく回顧するのも、縋るのも、今日だけ、今日まで。
終わったら、ただ幸せな日々を出来る限り思い出せるよう。
「…そうね」
頷く以外に応える言葉を、哀は持ち合わせていない気がした。
自分はまだ縋らずにはいられない。
静かに一言だけを漏らした哀に、快斗は優しく笑って見せた。
「哀ちゃんも。いつか、ね」
その日が来るのかどうかなど、分からないけれど。
それでも酷く柔らかに笑う相手の顔を見上げるといつか、と願うのは悪くない気がする。
「そうね」
だからさっきと同じ頷きを、今度は僅かに微笑って返す事が出来た。