これ以上近付かないで、好きになってしまうから。

「新一サン」
「ぁんだよ」
 初めから人を馴れ馴れしく呼び捨ててきたこの相手に"サン"付けで呼ばれる時は決まってどうでもいいことかくだらないことかどうしようもないことであることが多い。だからこそ少々邪険な返事をするがそれを気にする様子もなく快斗は冷蔵庫に突っ込んでいた顔を新一に向けた。
「あのさ…あー…」
「さっさと言え。3秒以内なら聞いてやる」
「新一甘いもの嫌い?」
 慌てた様子はないが即座に質問を口にしたその決断力だけは認めて、新一は言った通りそれを聞くには聞いた。
「甘いもの」
「そう」
「なんで?」
「なんでも」
「好き嫌いっつーか進んで食べはしないけど?」
「そっかぁ。ふーん…」
「で、なんでだ?」
「ん…自分が好きなものを嫌いって言われるのはちょっと悲しいなぁ、なんて思ったり?」
 へらり、と笑って見せた快斗の顔を見て、時計を見て、そしてもう一度快斗に視線を向けた新一は最後に天井を見た。
「……お前の買い置きのプリンになんて手ぇ出さねぇから安心しろ」
「いやだから別にね、」
「つーか人の家の冷蔵庫に勝手にプリンだのアイスだの買い置くことの方を俺は気にしてもらいたい」
 ちょうど3時を指した時計の針をもう一度確認のように見て息をつく。
 そういえば最近こいつはこの時間に大体この家にいるな、と今更に新一は気がついた。
「お前さぁ…」
「んん?」
 早速、とばかりにプリンを口に運んでいた快斗がくぐもった応えを返す。
「……なんでもない」
 平和な事だ、と新一は自然な動作で快斗から目を逸らした。












 深く考えれば考える程に"黒羽快斗"は理解し難い人間だ。

「今更気付いたの」
「やっぱ今更か」

 呆れたように哀が呟くと、呆れさせた新一の方はあっけらかんとそれを受け入れた。
 今更も今更だろう。一体いつからその理解し難い人間と高度な駆け引きを繰り返してきたのか、忘れたとは言わせない。
「私から言わせて貰えば、貴方も同類よ」
「……嘘だろ」
「何の根拠があって『嘘だ』なんて言えるのかしらね」
 そして多分、もっと遠い第3者から見れば自分も同類なのだろうと哀は独り胸の中で呟く。口に出す程しおらしくはないが、自覚せずにいられる程馬鹿でもないのだ。
 一方、馬鹿ではないはずなのだが破滅的に鈍い目の前の相手は、目前に死体が転がっている時より遥かに憂鬱そうに(むしろ変死体が転がっているなら目を輝かせる人種だ)、冷蔵庫を見つめている。
「冷蔵庫がどうかしたの?」
「うちの冷蔵庫の中があいつによってどんどん侵食されてる」
 ひとえに、食に対して関心の薄い新一の世話を焼いているが故の結果なのだが。
「好きな人の家に手料理作り置きしていく女の子みたいね」
 冗談めかして哀が言う。強ち的外れでもない話だ。
 しかし自分の興味を引くものを見つけてしまったら最後、寝食を忘れる新一を相手にするとなると、世話を焼かざるを得なくなるのもまた然り。
 必然的な状況に好意的な気持ちが乗っかってしまえば、最早家内全域制覇されるのも時間の問題だ。
「もう一緒に暮らしたら?家賃の代わりに家事手伝いで手を打って」
「…は?」
「そうしてくれると、貴方の健康維持が比較的楽に出来そうで私は願ったりなのだけど」
 やや投げ遣りに提案すると、世話をかけている自覚はあるのか新一は複雑な表情で曖昧に頷く。
「…なぁ、灰原…」
「なに?」
 言い難そうに口ごもる相手を視線で促すと、眉間に皺を寄せた真剣な顔で新一は重たそうに口を開いて。


「あいつって俺にとっての何?」


 至極真面目に問われた哀の方が、いっそ逆に問いたい内容である。
「……好敵手、じゃないの?」
 辛うじて体面を取り繕えそうな答えを見つけ出した哀だったが、新一の表情は晴れない。
「好敵手に家事手伝い求めていいのか?」
「…知らないわよ」
 そもそもそんなのは自分で考えるべきことだろうに。
「とりあえず"お友達"にでもなればいいんじゃない?」
 先より更に投げ遣りに答えると、新一は史上最高の(そして最悪な)ミステリーを与えられたような顔で頷いた。












「………は?」
 たっぷりの沈黙。そしてようやく言った、というか零した言葉がこの一文字だった。
「だから、この家住まないかって」
 灰原が、とやや遅れて後ろに言葉が続いた。
 名指しされた当の少女は2人からは少し離れたテーブルにつき、紅茶と焼き菓子で優雅に午後の一時を楽しんでいる。
「なんで哀ちゃんが?」
「俺の健康維持の為だと」
 それはそれでとても納得のいく理由だったが。
「別にお前がいなくてもそれなりにそれなりの生活くらいなら維持できると思うんだけどな」
「蘭ちゃんに頼らずに?」
 思わずぽろりと零した言葉は思いの外新一にダメージを与えたらしい。反論が思いつかなかったのか、新一は快斗を半ば睨みながら黙った。
「あぁー…えーっと…」
 答えに窮して視線を泳がせても、ここにいる唯一の他者はこちらに目もくれないし、それ以外の外力など期待するだけ無駄だ。


 天は俺を試しているんだろうか。


 この場合、自分を試しているのは天でも神でもなくすぐそこで1人紅茶を啜っている少女のような気もするが。
 しばらく悩み悩んだ末、結局快斗はこの甘い誘いに『否や』を出す事は出来なかった。
「じゃあとりあえずお試し期間で1週間程泊まってみるってことでどう?」
「ああ、そーだな」
 快斗の苦心の結論にあっさりと頷いた新一は、もうひとつ、あっさりと爆弾を投下した。

「じゃあよろしくな、快斗」

 にこり、と。
 音を立てるような笑い方は多分コナンの時の名残だろう。無邪気な笑みでなおかつこの時初めてこの名を呼ばれた快斗は、どうにかそれに頷いてやや強張った笑みを返した。






「なんだアレ…!」
 自分用のコーヒーを淹れに席を立った新一に聞こえない程度の音量で快斗が小さく叫ぶのを聞いて、哀は新一との会話を思い出した。
「工藤君が貴方は自分にとってのなんなのかって悩んでるから」
「から?」
「『"お友達"にでもなれば?』って助言したの」
「…帝丹小学校の同級生レベルか…」
 そう考えてしまえばあの反応も分かる気がするのだろう。しかし快斗の心境としては相手が自分であることを頼むから自覚して欲しい、といったところか。
「…新一から近づかれると困る」
「どうして?」
「充分好きなのに、まだ好きになる余地があるみたいで」
 なのに相手はまったくもってこれっぽっちも意識していないようなのだ。困りもするだろう。
「いいじゃない。これを気にとりあえず友達から始めれば」
「交換日記よりは建設的な気がするよ…」
 はは、と乾いた笑みを零して快斗は自分の分の紅茶にミルクと砂糖を落とす。
 くるくるとティースプーンでかき混ぜた液体が妙に甘そうに見えるのは自分の目の錯覚だろう。
「そういえば冷蔵庫、なにかあるの?」
「え?」
「工藤君が妙に気にしてたから」
「あ、ああ…」
 キッチンの新一の方を窺いまだ戻ってくる気配がないのを確めて、快斗は苦笑した。
「あれかな。ここしばらくさ、新一に食べて貰いたい物があって」
「食べて貰いたい物?」
「うん。というか作りたい物」
「作ればいいじゃない」
「…レモンパイなんだけど」
 それは確かに曰く付きのデザートである。
「微妙だよなぁ…多分好きなんだと思うけど」
「…あえてそれを作ることに意義はあるの?」
「蘭ちゃんより美味しくて病み付きになるもの作れればな、と思いまして」
 見た目は勝つ自信があるが、ある意味あの壮絶な見た目は印象に残るといえば残るだろうし。
「味覚触覚嗅覚とか、とりあえず五感から落としていこうかと、ね」
「………。」

 それは用意周到と言うべきか、それとも回りくどいと言うべきか。

 しかし相手が工藤新一だと思えば、そのくらいの遠回りも必要なのかもしれない。
「近づいた分くらいは、絶対こっちを向いて貰うから」
「……気長ね」
「まぁね」
 もう今更だし、と屈託なく笑った快斗にそれもそうか、と頷いて哀は自分の甘くない紅茶に口をつける。
 さっきより冷めたそれは、何故か少し甘味を増したような気がした。









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それでも近づくならもう仕方がない、って話。
次のはオマケくらいの短さです。