冷たい銀色の刃が、肌色の薄皮の上にひたりと押し付けられている。
 持ち手を握り締める指は震えもせず、まるで慣れきったように安定していた。
 首に押し当てたそれを見ていると、その少し上で相手の口が動いているのが見えるのに、それが何を意味しているのかがまったく分からない。

 多分、その言葉を自分はとても求めているのに。

 それを問い返すことすら許さずに、ナイフの柄を握る手が少し先へ進んで。薄皮を破った刃は肉に少し食い込んで紅玉石のような雫を床へと滴らせる。
 もう引き返すことが出来ないのだと分かって、今更に困る、そんな自分の気持ちはお構い無しにまた相手の口が何かを呟いて。
 それは小さな微笑を形作る。
 満足そうなそれに、自分まで満たされてしまいそうになる。
 そして、そのまま、刃は前に進んで。









「っ…冗談キツイで…」
 ぬるい空気の充満した部屋で、火澄は溜息を漏らすように声を出す。
 常より早い心臓の音と、じっとりと嫌な汗で纏わりつく髪。
 時計が示す時間は早朝というよりはまだ深夜に近い。それだけ、浅く短い眠りだったことを知らしめてくれた。

 最近見る、夢。
 ずっと同じシーンだけを繰り返し繰り返し。

「罪悪感でも埋め込むつもりかいな…」
 無意識下での自分のダメージが思ったより大きくて、まだ埋まらない傷跡はじくじくと痛みを訴えている。
 やられた方よりやった方の痛みが甚大なんて、笑いを誘う。


 この夢が、あの日の代償なら。
 この夢を、見終わったら。


「何が起こるんやろ…」
 悪夢の終わりか、始まりか。
 それとももっと別な何かを、期待しても良いのだろうか。




* * *




「オイ」
「んんー…?」
「オイ。寝るな」
「なーぁ…ん?」
「だから、起きろ」
「あぁーとぉ…5、ふん…」
「…寝るなって…」
 呆れて肩を揺さぶると、ようやっとベッドの住人は半眼を開く。
「…あゆむ?」
「起きたか?珍しいな…こんなに起こしても起きないなんて」
「ん。ふ、ぁぁ。…ありがとぉ。起こしてくれて」
 にっこり笑って礼を言うと、歩は「いや」と一言残してさっさと部屋を出た。歩の今の格好は制服にエプロン姿。朝食を作っている途中でいつまでも起きてこない火澄に気付いて起こしにきたのだ。
 ここのところまともな睡眠を取れていないのは多分ばれているのだろうけど、歩は何も言わない。
「当たり前やけど」
 心配されたいわけじゃない。注意して欲しいわけでもなく。
 ただ、気付いてしまったことは歩にとってはあまり嬉しい状況ではないだろうな、と思うとそれがまた『済まないな』という気持ちを引き起こした。




Least that I could do.

少なくとも出来ること






「オイ」
「…ん?」
 朝と同じ声と共に肩を揺さぶられて、火澄は顔を上げた。
「終わったぞ、HRも」
「あらら」
 頬杖をついたままぼんやりとしていてついうとうと…としていたらいつの間にか授業もSHRも終わっていたらしい。器用な体勢のまま舟を漕いでいる火澄を起こした歩はすでに帰り支度が完了していた。
「今日お前日直だろ?」
「ああ…そう言えば日誌がどっかに…」
 それでいいのかというぐらい適当な日直だが、実際日直のすることなんてあってないようなもので、日誌を出し忘れさえしなければそれ以外は特に咎められることはない。
 机の中から引っ張り出したほぼ真っ白なページを時間割を見ながら適当に埋めていく火澄に、歩は「スーパー寄るから先に帰る」と告げて教室を出て行った。
 所帯じみた割にあまりに自然なその理由に、火澄はぼんやりとその背を見送るしかできなかった。


「こういう日に限ってー…やな」
「当たり前でしょ、狙ってやってるんだから」
「待ち伏せなんて愛されてるんやな、俺」
「勝手にほざいてなさい」
 すっぱりと一刀両断されるも、余裕があるのはどちらかというと火澄のほうだった。
 それが例え見せ掛けだとしても。
「同居生活はどうかしら?」
「どう、と言われてもまだ歩とは清らかーな関係や」
「そんなところになんの発展も求めてないわよ」
 はぁっと苛立ちを込めてあからさまに溜息を吐くキリエに、火澄は首を傾げる。
「『どう』って訊かれても…なにを期待しとるん?」
「分かりきったこと訊かないで頂戴」
「キリエちゃん、カルシウム足りとる?ミネラル不足は美肌の敵やで。煙草も」
「私の肌荒らしてる主な理由の第2位は貴方よ」
「ははは。第1位には輝けんな、やっぱり」
 楽しそうに笑う火澄を見るキリエから、不意にそれまでのうんざりとした表情が消えた。
「なにを考えているのかしら」
 残ったのは、細められた目に残る冷ややかな眼差し。
 それを正面から見ることはない火澄の絶えない笑みが真意をはぐらかす。
「貴方は、独りでいるのが一番楽だったでしょう?」
「んー。せや、な」
「なのに、今更?」
「キリエちゃんは俺が喜んで死ぬとは思って…ないやろ?」
「当たり前でしょ」
「じゃあ簡単や」
「簡単ね。簡単だったはずなのよ、確かに。なのに」
「歩が難しくした?それとも清隆?」
 初めて、火澄が視線をキリエに向けた。
 しかしそれは結局なにを読み取ることも出来ない無邪気な瞳だったが。
「『なにを考えているのか』って訊くんは、俺とはちゃうやろ」




They call it invincible.

無理だって言うけど









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