それもまたひとつの可能性でしかなく
「誰だ?」
誰何の声に浮かぶのはただ微笑み。それも、慈悲深い。
「そうだな…貴方を殺すもの、と言うと少々無粋かな」
「殺す?」
疑問は、訝りでも恐怖でもなく、嘲りでもなかった。
それもまた慈悲深い程の余裕に満ちた、微笑で紡がれた言葉。
「拳銃か?ナイフか?いっそそこの花瓶で撲殺という手もあるな」
「生憎とそう突飛な案があるわけでもないんです。遺憾ながら」
「それはつまらないな」
「そうですね」
懐から出した掌サイズのコンパクトな凶器。持ち運びに便利で信頼性もそこそこ。難を言えばサイレンサーを忘れたこと。
「最期は、やはり笑って貰いたかったです」
「初対面の相手にそれを突きつけて言う台詞ではないな」
「非常識は今更のことでしょう」
「それもそうだ」
納得と現状把握とはまた別なものだ。
ある意味現実逃避は自分の精神と現状の均衡を保てないから起こる一種の擬似的な強制の納得にも似ていて、現状把握とはつまり納得は出来なくても冷静は頭と判断力さえあれば成し遂げられてしまうもの。自分の納得する気持ちは後からいくらでも付け足せる。むしろ付け足しにでもしない限り納得など出来ない状況が多すぎる。
この思考回路が現実逃避だと言えなくもないが。
「私は」
オートマのカートリッジはしっかりと新しいもの。万が一にも間違いはない。
ありはしないのだ。"万が一"など。
「貴方を殺したかったわけではないのですが」
「そうかい?」
「ええ。」
この銃弾が外れる可能性は、理論的にはありえる。それはいくらでも証明できるだろうあくまで机上の話ならば。
だが、自分のこの手から生み出される未来は自分の意思さえ関係なしに決定している。これは理論的な証明は出来ない。
しかし、一瞬先の事実さえあればそれは充分な証明だ。
今まで躓いたことのある人間と、躓いたことのない人間が、実際転ぶかどうかの確立を理論的に弾き出したとしても実際転んでしまうのはどちらかなんて結果を見なければ分からないのだ。それが生き物。
「それでも運命がこうあるならば私はそう動かざるを得ない」
今は。
それを甘んじよう。
「とても、残念です」
哀れむような、悼むような、そしてまるで愛しむような、目礼。
乾いた銃声。その単音ひとつで彼の世界は終わる。最期の最期で世界に裏切られて。
ああ、せめて。
詮無き事と思いながら独りごちる。
貴方と生きる明日を一瞬でも想えたのなら何かが変わっただろうか。
"明日"という日は永遠に来ないけれど。
捏造もいいところ。