*まだ1、2巻あたりのお話だと思ってください。
「そこの不幸せそうな面した君!」
学校の門を出た正面の公道に堂々と停まった青のミニクーパーを背にした女性が指を差す。
「鳴海さん。呼ばれてますよ」
「…何で俺なんだ」
「今この学校で一番不幸せそうなお顔をお持ちなのは鳴海さんだと思いますよ」
にこ、と。
随分と酷いことを笑って告げた隣りの少女に、歩は精一杯顔を顰める。
言葉なく不快を表した歩の表情を読み取ったひよのは、更にもう一言、嫌がる歩の背を突き飛ばすように付け足した。
「鳴海さんの好きな年上の女性ですよ」
「人聞きの悪いことを言うな」
「そうですね、失礼しました。鳴海さんの好みはもっと大人っぽくてそのくせどこか抜けてる方ですよね」
的確な指摘に思わず歩は黙り込む。
今更帰り道を変更することも出来ない歩は喋りながらも門に、つまりはその女性の方へ近づいていた。
「呼ばれたらさっさと来る!」
「………。」
理不尽な事を言われているのだが、怒りが湧いてこない。傍若無人な人間に慣れすぎているのも問題だ、と思いながら歩はその女性の前で立ち止まった。
「俺のことですか?」
「そ。鳴海清隆の弟君」
また兄貴関係か、と声には出さずに内心で溜息を吐く。
一体何の用なのか、と半ばうんざりと相手の発言を待っていた歩に、しかし続く言葉は齎されなかった。
彼女はいきなり踵を返してミニクーパーの運転席のドアを開いた。
「乗って」
「…は?」
「立ち話もなんだし。あんまり時間ないし。家まで送ってあげる」
迷わず真っ直ぐ我儘を押し通す。
こちらの返事など待たずに運転席へと乗り込んだ女性に返す言葉を持たず、歩はしばし唖然としたまま助手席の窓を見つめていたが、やがて諦めたようにそのドアに手をかけた。
「ご報告お待ちしてますから」
「…あんたの事だから言わなくても次の日には全部知ってそうだけどな」
「嫌ですね。買い被りですよ?」
変わらずにこにこと笑ったままの少女にもまた返す言葉がなくて、歩はひとつ息を吐く。
どちらの言う事にもまだ頷いてはいないのに、結局流される未来の自分が見える気がした。内心それを嘆きつつ、歩はミニクーパーの助手席のドアを開いた。
シートに身体を収めてドアを閉めると、シートベルトを締める間もなく車は発進した。
「えーと…歩君、だっけ?確か」
「はい」
シートベルトを締めて歩は頷いた。
感情の篭らない答えに、ハンドルを握った相手が微かに顔を顰めた。
「全然昔と変わんないね、君」
「………?」
「会った事あるんだよ。君が小学生の時」
なんで覚えてないかなぁと非難され、歩は真っ直ぐ前を見たままの相手の横顔を見る。
確かに見覚えはある、かもしれない。
「…もしかして小日向さんですか?」
「もしかしなくても小日向さんだ」
髪形が変わったせいか上手く記憶と一致しないが、雰囲気はそんな感じだ。
喧嘩腰と言うか居丈高と言うか。
失礼な思考を読み取ったかのようなタイミングで相手がこっちをちらりと見た。
「それで、何の用で学校に?」
叱責の声が来る前に、と問う。
「ご存知だと思いますが、兄ならいませんよ」
「知ってる。失踪中だろ?」
ふざけんなあの馬鹿ヤロー。呟かれた言葉に思わず頷きそうになった。
「だからあの馬鹿はどうでもいい」
「じゃあ…?」
「まどかさんは?」
「職場でも家でもそれなりに元気です」
今は。2年の歳月は義姉を落ち着かせるに充分な時間だった。根本に根付く想いはまた別だろうけれど、彼女は基本的に強い人だ。
歩の胸中などを気にする人ではないだろうから、そんな部分は置いて。本題はそれだけなのかと視線を横に向けかけたところで、相手がまた口を開いて意外な事を尋ねてきた。
「じゃあ君は?」
一瞬、何を問われたのかが分からなかった。
「…は?」
我ながら間の抜けた反応だとは思ったが、それ以外の言葉は残念ながら浮かばなかった。
鈍い反応がもどかしかったのか、相手は呆れたように質問を繰り返してくれた。
「だから、君は?元気なの?」
「…見た通りです」
さっさと答えろ、と言外に急かされて歩は少し考えながらどうにかそう答えた。
だが彼女はそれでは不服らしい。
「見て分かんないんだもん、君」
あっさりと返されて再度歩は返答に困った。
そもそも見ただけでその日の気分を見分けられるような人は、余程明け透けな性質の人間だろう。生憎と自分がそうでないことぐらい歩は自覚していたし、まして彼女と自分は付き合いが長くもなければ、そもそも親しいとは言い難い仲である。見て取れるとしたら、相手の表層的な健康状態ぐらいだろう。ということは、相手が問うているのは自分の精神状態だ。
それを察するからこそ、そこに疑問が生まれる。
何故この人はわざわざそんな事を訊くのか、という疑問が。
返答に困っている内に、気付けばマンションがもうすぐそこに迫っていた。元々学校からそう遠くない距離にあるのだから車という移動手段ではそう長くかからなくて当たり前だ。
このまま返答もなしに素直に放してくれる相手ではないことは分かっていたので、歩は自分の思考に区切りをつけて当たり障りのない答えを出した。
「特に不健康ということはないですから、元気と言えば元気ですね」
「………。」
精一杯の答えに彼女は不満げに沈黙し、そしてブレーキを踏んだ。乗った車が丁度マンションの手前に着いたのだ。
相手の不満は気付かなかった事にして、歩はシートベルトを外した。
「送ってもらってすみません。お茶でも飲んで行きますか?」
それは彼女の大分押し付け気味の親切の結果だったが、完全な社交辞令よりは少しだけ真面目にそう尋ねる。しかしそれは、なんと言うか予想通りあっさりと断られた。
「そんなに暇じゃないから」
じゃあ何故、と浮かぶ再びの疑問。だがそれも口にすることはなかった。藪を突付いていい思いはしなさそうだったので。歩は一度俯いて、その疑問をなかったことにした。
「それじゃ、失礼します」
コンクリートの地面に降りて、一礼。ドアを丁寧に閉めてしまえば降って湧いたような彼女との一時は、始まりと同じように簡単に終わりを告げた。
「結局なんだったんだか…」
未練もなくすぐに遠ざかっていった鮮やかな青のミニクーパーを見送って、ぼんやりと呟く。
しかし直接問う事が出来ないのなら、その答えは望むべきではないのだろう。大体にしてそう熱心に聞きたいわけでもない。
差し当たって歩が気にすべき事は、久しぶりに会った相手の思惑ではなく今夜の夕飯だった。スーパーに寄らずに帰ってきてしまったからには家にある有り合わせで夕飯を作らねばならない。
何が残っていただろうかと冷蔵庫の残りや野菜のストックを思い出しつつ、歩は何事もなかったかのようにマンションのエントランスに足を向けた。